それは哀しい麻色
「ゐつー?森羅ー?隼も、どうしたの」
「みんなには言うな」
「何でですか?」
「あの事件はみんなのトラウマなんだよ」
下に降りると、ちさ姉が夕食の準備をしていた。
「熱は。下がった?」
「うん、だいたい。――仕事?」
「……私の仕事だから、気にしないで」
隠しているのが見え見えだ。
「ちさ姉」
「何?」
振り向いたちさ姉。僕がメガネを外していることに、気づかなかった。
「何隠してるのかな。ね、言ってくれないかなあ」
「――!」
がたん、大きな音がする。涼と陸が慌てて降りてくるのが分かる。
「答えて」
「……『彼岸』が」
「『彼岸』が」
「私たちの領域で動き出したの。表の世界には出てきてないけど、昨日仲間がやられた。置き手紙があってね、『あと5日』って」
あと5日。間違うことない、僕の期限。
「なんで黙ってたの。僕だってここの一員だよ」
「……だって」
「ちさ姉の優しさってやつだねー。隼が大嫌いな『彼岸』に、会わせまいとしたんだよー」
「相手が本気でこっちを潰しにかかったら、こっちも本気であっちを粉々にしないと~。そしたらさ~、傷つかないですむと思う~?」
「「傷つかないわけがないよねー。それでお前、どう思う~?」」
僕が、昔のことを思い出すと。
本当に、なんて。
「馬鹿だね、なんて言わないよ。あきれるほど馬鹿だから」
馬鹿なんだろうか。
「せ、先輩」
言うな、と口に出さずに言う。ちさ姉たちが『彼岸』の現れた本当の理由を知れば、何が起こるかわからない。ジェイだって、これを知れば僕を軟禁しかねない。
それほど、必要な力なのだから。傾城は。
僕ではなく、傾城が。
『彼岸』の雇い主がほしがったのも、僕ではない、傾城の力だ。
僕じゃない。
「――ごはん、食べようか。腹が減っては戦は出来ぬ、ってね」
*****
先輩は笑みを浮かべた。ここに来て、ベッドの中で自己紹介したときには明るい人だと思ったのに、そうでもなかった。それはあのとき、驚いていたから、それだけなのだ。ただ、いつ去るかもしれない者に気遣った、それだけ。
本当は。
彼は、重いものを、たくさんたくさん抱えて、生きているのだ。それを気取られぬように、嘘をつき続けて。それが自分の弱点にならぬように。
先輩が笑うとき、それを痛感する。全てを否定した笑み。
それを向けられるたび、心臓の真ん中がずきっと痛む。
あたしは、なんだろうか、その――好きなのかもしれなかった。先輩のことが。でも、それを言ったら変わってしまう気がする。何かが。たぶん、もう彼は、あたしを見てくれることはない気がする。
「ゐつ、梅干とって」
食べ飽きているおかゆを面倒くさそうに咀嚼しながら先輩は、味を変えようと梅干を一つおわんの中に入れた。もそもそと口の中でおかゆを転がす先輩をそっと眺め、考えを続ける。
好き。今まではまだ、伝えられていた。あの時は、縛られていたけれど、自由だったかもしれない。今は、自由だけれど、縛られている。
矛盾しているけど、矛盾していない。
それが、辛かった。何より、 辛かった。