それは荒れた茶色
昨日はなんとかいつもどおりに接することができた。と言っても、学校休んだけど。
先輩との接し方が分からない。つい先日までは普通に接することができたのに。今では『普通』にしていることすらできない。
こんなに悩むと、最終的にこれは夢なのではないかと思ってしまう。悪夢。あたしを迎え入れてくれた人が、あたしを拒絶していくという、最悪の。しかし、どれだけ頬をつねっても痛いだけで、夢から覚めることはない。当然だ。悪夢が現実なのだから。
仕方ない。悪夢でもいいから、先輩に『普通』に接したい。
ふと、疑問が浮かぶ。所長が言っていた『飲み込まれる前に、受け入れなさい』。どういう意味なんだろう?
ひどい咳が聞こえてくる。考え事をしすぎた。あたしは急いで水差しに冷たい水を入れ、リビングに向かった。
「お水持ってきましたっ」
「ああ、サンキュ。そこおいといてくれる」
身体が弱いんだなとは思っていた。あまり長い間外に出ることはなかったし、みんなも無理をさせないようにと気にかけていた。しかし……
「ほら、隼。水飲め、みず。……まいったな、咳止め飲むか」
ここまでとは。先ほどから咳が止まらない。森羅先輩が優しく背中をさすり、薬を含ませる。
「ゐつちゃん、背中さすっといてくれるか。俺、ちょっと隼の部屋に行ってくるから」
「はい」
優しく、優しく、落ち着いてくれることを願って背をさする。ひどい汗だ。脇においてあったタオルで拭う。先輩と目が合った。紗の布に隠されたそれは熱のせいでぼんやりしているようだ。
先輩が、何かつぶやくように口を動かした。
「先輩?」
ダメだ、やはり分からない。森羅先輩に聞こう。
「森羅せんぱ」
「……な」
「え?」
「そ……ちに、ぃく………な」
そっちに、いくな。
「ど、ういうことですか」
「夢を見てるんだろ」
いきなり後ろから聞こえてくる声。条件反射で肘を叩き込む。が、外れた。
「ぅわっ!落ち着け、落ち着けよゐつちゃん。俺だって」
よく聞けば、聞きなれてきた声。森羅先輩だった。腰が引けているのはあたしが肘を叩き込もうとしたからだろうか。どうどうと馬を落ち着かせるように扱われたのでむっとすれば、いつものような軽い笑顔で手を合わせ「ごめん」と謝ってくる。
「すごい殺気だな、ぞくぞくした。それで表情が笑顔だったら、ほとんど隼だな」
すらりと伸びた腕を見せられる。鳥肌が立っていた。
「気迫でいったら隼が圧倒的に勝ってるけど。あいつのは鳥肌すらたたないもんな。逃げなきゃ、必ず殺されるって感じ。でも気分からいくともう捕まってて、アキレス腱切られて逃げられなくなって、恐怖を倍増させるからと目を抉り取られて――あー。自分で言ってて怖くなってきた」
聞いてて怖かった。
森羅先輩が先輩を揺り起こそうとする。
「隼ー、起きたまま夢見んな。目ェ開けたまんま寝てるって、受験直前の徹夜してる学生か」
ずいぶんつまらないギャグだ。
「先輩っ、起きてください」
あたしも起こそうと近づく。
先輩はゆっくりと瞬き、あたしを視界の中に入れて。
目の色を、恐怖に染めた。
「こなぃで……くるな、嫌だ、いや、っ――」
まるでむずがる子供のように『いや』と繰り返す。
落ち着かせようと手を伸ばす。
「何が――」
嫌なんですか、とは聞けなかった。
紗の布を剥ぎ取る。
真正面から先輩を見る、見られる。
「来るな」
小さな悲鳴をあげたかのように胸が軋む。
ああ、また拒絶か。
それに従うことしかできない。
「隼、ちゃんと見ろ。ちゃんと見て。あの子は誰だ。綱手ゐつじゃないのか。お前が仲間だって言ったゐつちゃんじゃないのか」
森羅先輩が必死になって先輩を起こそうとする。起きられるならあたしも起きたい。こんな悪夢から。
「――っく、う、っ」
誰が泣いてるんだろう。先輩?いや、目が霞んではいるけれど見える。目が覚めたようにびっくりした顔であたしを見てる。じゃあ、森羅先輩……でもない。同じように、あたしを見てる。
「ゐつ……?どうした。ゲホ、ゴホッ……泣くなよ、困るだろ。おい、ケホッ、どうしたんだって」
先輩は心底心配そうな顔であたしの涙を拭う。その顔が、あたしには泣きそうに見えた。
自分が何をしていたか、何を話したか先輩は覚えていないようだ。先輩の陰で、森羅先輩は唇を噛んでいた。まるで、泣きそうな表情で。
ねえ、本当に泣いてたのは、だれ?