それは静かな白色
前よりは。……もしかして。森羅先輩も言っていた、あの時なのか。
「イギリス留学する前は、ってことですか」
小さく、彼女はうなずく。
「そう。それまではエージェントと森羅以外の、全ての人間を拒絶してた。というか、拒絶されてたの。あることがあって、人を惑わす能力を使ってしまって、幼稚園のみんな、それを信じた親馬鹿たちが『化け物』って……」
ちさ姉さんは言葉の途中で沈黙した。
子供は純粋だ。純粋で、無垢で、残酷だ。一度何かを信じ込むと、それが絶対であると思ってしまう。『化け物』とはじめに言ったのは、たった一人かもしれない。でも、それを聞いた子供たちが信じ込んだら。それが絶対であると思ってしまったら。
本当に子供というものは、可愛くて、恐ろしい。
「それ、で」
「そして――」
ちさ姉さんが、言葉をつむごうと口を開ける。
「そして?」
穏やかな低音。滑らかなテノール。人をいさめる響きをたたえた、甘い声。人を惑わせ、狂わせる。
「そして、どうしたの?いけないなあ、僕に黙って、他ならぬ僕のことを話そうなんて。トイレに起きてなきゃ、うっかり聞き逃すところだった」
先輩。
全身に鳥肌が立った。一気に周りの空気が冷えた気がする。
階段の中ほどにいた先輩は、手すりにつかまってゆっくり降りてきた。
魔王、降臨。そんな想像が頭に浮かぶ。
「あら、私は所長よ。同時に隼の育て親みたいなものじゃない。せっかく仲良くしてくれる子に相談されて、教えない訳があって?」
普通に答えているちさ姉さん。だが。微かに目が泳いでいる。手が震えている。
ちさ姉さんも、怖いのだ。
所長であるちさ姉さんすら恐怖を感じるなんて。
「でも、それは僕のことだ。勝手に口外しちゃいけないよね。話す時がきたら僕から話すから、ちさ姉はお口をチャックしておけばいいだけ」
左中指で、ちさ姉さんの唇を、すっとなぜる先輩。
「夜更かしは肌が荒れる一因だよ。ちさ姉ももう若くないんだし、そろそろ気をつけなきゃ」
「まだ33よ。お肌の曲がりかどはもう少し先でしょ?そのうちに夜更かしを楽しんでおかないと」
「ははっ、それもそうだね。……そうだな。僕さ、ゐつに氷の刃の基礎を全部教えてないんだよね。教えてあげてくれない?お話がしたいんでしょ?」
そして先輩は、ふわっとあくびをした。右手で口元を隠す。
「ごめん、やっぱ眠い。ゐつ、聞きたいことがあったら僕に直接訊きなさい。というわけで、おやすみ」
先輩は、部屋に消えていった。
それから、長い沈黙があって。
ちさ姉さんが、細く息を吐いた。肩の力を抜く。
「あの用心深さも時には困るわ……。どうしてああも秘密主義になっちゃったのかしら」
「先輩、あんなに怖くなるんですね……」
ちさ姉さんが、頭を振る。
「もっと怖くなるわよ。背中をぱっくり開けられて、脊髄を撫でられるような、ううん、もっとね。生きたまま解剖されてるのと等しく怖い。さすが、ボスに気に入られただけはある」
今度は質問をした。あたしは一つ、どうしても気になったことがある。
「ちさ姉さ――所長も、怖かったんですよね。日本支部の代表まで動けなくなるほど、ってことは。もしかして先輩って、先輩自身が言ってるような平のエージェントとは違うんじゃないですか?」
あたしに精一杯できる、先輩の網をすり抜ける質問だった。我らが組織である氷の刃のことについてなら、教えてくれるのだ。なら、それに関係することを織り交ぜれば。
「正解。あの子は並みのエージェントじゃない。認めてるから素直に言えるけど、紫苑は私より階級が高いの。組織じゃあ階級の高さにあわせて仕事とか給金が違うんだけど、階級が高ければ高いほど、要注意人物になる」
分かる。その能力をひとたび悪事などに使えば、どうなってしまうか分かったものじゃない。
「紫苑はあの能力と併せて、頭脳明晰、運動神経抜群ときたものだから、本当は最高階級にいてもおかしくないのよ。ただ、虚弱体質と医薬品アレルギーだったのを考慮され、階級をさげてもらえた。実際、そのせいでよく仕事できないときとかあるし」
「そう、なんですか」
「氷の刃には特別資格っていうのがあるのは知ってるわよね。この家に住んでるエージェントは全員取ってる資格なんだけど、これは、いろんなことが認められる。そんなに変わるわけじゃない、給金はそのままだし、依頼があったら受けるのは当たり前だわ。ただ、事情がある場合は仕事を断れて、断っても階級は下げられることがないのが、主な内容かな。あと、多少――言っちゃあ悪いけど、いけないことしてもどうにかなる。紫苑とか、ハッキングしてるけど大丈夫でしょ。紫苑ならばれないようにするんでしょうけどね。それに……警察から煙たがられる。でも、情報はちゃんとくれるってくらいかしら」
あれ?そういえばちさ姉さんって。
「所長、警察に、勤めてませんでしたっけ?」
「そうだけど」
けろっとした顔で答える彼女。不思議だ、とても。
「続き話すわね。紫苑はその特別資格を余すところなく使ってるわ。身体の具合が悪いときは、仕事を断るし。さっきも言ったように不正アクセスはするし。警察から、顔は見せないけど情報をもらってるし。私だって、表の仕事が同じになったときには断ってる。職場の人と顔をあわせたらさすがにまずいのよ。涼と陸だって、涼は医療関係を断る。そして――涼は、よく分からないけど総合的な医者らしいのよね――手術があったらそれを優先させる。陸は、自白剤とかよく使ってる」
「そうなんですね。……でも、知りたいことは聞けずじまい、なんですよね――」
あたしが知りたいのは組織のことではないのだ。先輩のことなのだ。先輩は何故ああも頑なに自分を隠そうとするのか、それが知りたいだけなのだ。
先輩がどんな人なのかつかめない。この家の人たちは全員掴みづらいけど、特に。
「知りたいのに」
知りたいのに。
掴めないからこそ、掴みたいのに。
先輩は水に浮かぶ月のように、得ようと思って掬えば消えてしまう。そしてまた、水を湛えた器の中に、何事もなかったかのようにいるのだ。
「知りたい、だけなのに」
あたしはまた、誰に聞かせるわけでもなく、呟いた。