走光性
子供の頃、蝶が嫌いだった。蛾との区別がつかなくて気持ち悪いとかそんな理由だったと思う。
終電に駆け込み、席に座る。間に合ってよかったと胸を撫で下ろし、周りを見る。同じ車両には、自分と同じようにくたびれたサラリーマンと融けるように眠るオジサンだけだ。電車のガタタンガタタンという音の合間にオジサンの鼾とサラリーマンのため息が聞こえる。それ以外何も聞こえない。私はネクタイを緩めて一息つくとスマホを見た。約十一時間ぶりに見たがほとんど変わりがないその画面にウンザリして何をする訳でもなくスマホを鞄にしまった。アナウンスが最寄り駅への停車を伝えた。
アパートに着く。外付けの階段を登り二階にある二〇三号室の扉に手をかけた。ドアノブを捻っても開かないのでイラっとしたが、鍵を指していないことに気が付いた。余計にイラっとした。鞄の中から鍵を出すとき、壁に一匹の蝶が止まっているのが見えた。その翅には瞳のような模様があり此方をじいっと見つめているようだった。だからと言って気味悪がるでもなく、玄関に自分の体を仕舞い込んだ。
アラームが瞼を無理やりこじ開ける。枕元のスマホを開く。覚醒したばかりの両目を、ブルーライトが鋭く突き刺した。火曜日の朝六時。燃えるゴミの日だと思いながらベッドから抜け出る。八枚切りの食パンを何も塗らずそのまま口に詰め込む。昨日ぐちゃぐちゃに脱いだワイシャツを洗濯カゴに突っ込んで、新しいワイシャツを引っ張り出す。歯を磨きながらスーツに着替える。ここ数年繰り返してきた動きのため寝起きの働いていない頭でも正常に動作する。玄関に積もったゴミ袋を横目に扉を開ける。
午後一時、束の間の昼休憩すら上司に振られた仕事を片しながらのランチタイム。ランチと言っても栄養補給ゼリーとバランス栄養食のブロックのみだ。そんな、視覚的にも味気無い昼食を済ませる。隣では同僚が仮眠をとっている。微かな鼾が私の神経を逆撫でする。
午後六時、定時だが関係なく上司は仕事を振ってきた。入社したばかりの頃はそんな上司に苛立ちもしたが、今ではもう何も思わない。そう思うようにしている。そうして残業を終えると、終電に駆け込む。そんな日々の繰り返し。
スマホに通知が届く。大学の頃の友達から、結婚式への招待だ。周りの同世代は挙って結婚をしだしている。彼もその一人だ。相手は大学の後輩らしい。ぜひ来てほしいとのことだった。当日は特に予定が無かったが、数分考えた後断る旨の返信をする。今の自分にはきっとその友達が眩しすぎるから。他人の幸せを恨むとか、不幸自慢をしたいとか、そんなことではないと思う。世界に独り取り残されたような感覚、異質なものとしての自分に耐え切れなくなりそうだから。返信した後、酷い倦怠感に襲われ、ベッドに横たわる。そのまま、眠ってしまった。せっかくの休日だったが何もできなかった。そんな後悔はとっくにしつくしていた。
上司に仕事を振られる。私にではなく仮眠中だった同僚にだ。上司に肩を叩かれ、バネのように飛び起きる。いつもは私に振られるような仕事が彼に与えられる。久し振りに定時で上がることができた。いつもより人の多いホームでスマホを見ると一件の通知が届いていた。大学の頃の友達からだ。「久し振りに飲まないか。今度結婚するアイツもいる。」そう書いてあった。結婚式不参加の返事をした直後に合っていいのか。幸せそうな彼らに会って自分は平気だろうか。考えを巡らせた。頭で考えているうちに、体は勝手に反対方向の電車に乗っていた。
指定された居酒屋に着く。外から彼らが見える。店に入ろうとして足が止まる。話している音、笑っている音、ジョッキをぶつけ合う音、それらが鼓膜を大きく震わせる。途端に全身の力が抜け、方向感覚を失い自分が今空中にいるような感覚に襲われる。世界から光が失われた。暗闇。その先に微かな光が見えた。霞むような光。吸い込まれるようにその光を目指して歩く。
気が付くとアパートの前に立っていた。異様な倦怠感と酩酊状態のような不快感を感じながら二〇三号室に落ちる。街灯の光に蝶が集まっているのが見えた。
起床する。スマホを見ると通知がたくさん届いている。昨日ドタキャンしたことを心配するものが数件と会社からのメールが数件。時間を見ると午後一時になったところだった。スマホを放り投げ、私は伸びをした。玄関に積まれたゴミ袋を見やる。先週から放置していた燃えるゴミ。謎の衝動に駆られ、ごみを捨てに行く。今日は燃えないゴミの日だったがそのままにゴミ捨て場に放り投げた。胸の中にあった薄暗い何かが少し減った気がした。
玄関ドアののぞき穴に一匹の蝶が止まっていた。その翅には瞳のような模様があり、さっきまでの自分を観察されていたかのようだった。
部長に叱られる。昨日の無断欠勤について、小一時間説教を受けた。何故そんなことをしたのかと聞かれても、理由はただ何となくで、そんなこと口が裂けても言えない。平謝りして部長の気が済むまで耐えるしかなかった。学生の頃は先生からの説教なんかに一々反応を示していた心も、今になっては慣れたのか疲れたのか一切動こうとしない。口だけが謝罪の言葉を機械のように吐いていく。ようやく解放されたころには、始業から二時間以上が経過していた。そんなに経っていたのかと驚く。自分の席に戻り、パソコンとにらめっこしていると、隣から声をかけられた。
「大丈夫か?部長も嫌な奴だよな。二時間も説教するとか正気じゃないよ」
平気だと答える。迷惑をかけたことにも謝罪をする。
「別に謝らなくて良いよ。たまには休まないとおかしくなっちゃうぜ」
そうだなと答える。ふと気が付く。彼と会話をしたのは一体いつ以来だろうか。挨拶を交わす程度で言葉を交わすことはここ数か月無かった。
帰宅する。部長の説教のせいで仕事は全く進まず、残業の後終電での帰宅になった。家に着いてから改めて考える。自分はいつから同僚と話さなくなったのか。仕事以外での会話などほとんどしていない。部長からは叱られるか仕事を振られるかだ。誰かとしっかりと話したのは一体いつだろうかと考える。答えは得られずそのまま寝てしまった。
夢を見る。子供の頃の夢を。朝、母親にやさしく起こされる。用意された朝食を平らげる。学校に行き、友達や先生に挨拶をする。授業は適当に受ける。給食を平らげる。放課後は友達と公園で暗くなるまで遊ぶ。家に帰って、夕食を平らげる。最後は暖かなベッドで眠りにつく。そしてまた、母親の声で目が覚める。それを繰り返す。けれど、いつしか自分の周りから人が一人、また一人と減っていく。一人減るごとに世界から光が失われていく。少しずつ自分の周りが暗闇に覆われていく。光が完全に失われた。そう思うと、自分の周りにポツポツと光が生まれていく。まるでその光に吸い寄せられるように近づこうとする。しかし、半透明な膜のようなものに覆われて近づくことができない。諦めて一人、暗闇の中で光をただ見つめていた。
アラームが瞼をこじ開ける。その眼には涙が溜まっていた。驚いて、涙を拭う。ふと何かを思い立って、大学の頃の友達に電話をかける。
結婚式に行く。都内にある水族館を貸切っての結婚式ということらしく、入場口がそのまま受付として使われていた。入り口を抜けると、飾り付けられた水槽が出迎えた。館内で一番大きな水槽の前にはテーブルが並べられて、人がまばらに座っている。見知った顔の集合しているテーブルに近づく。久し振りと挨拶を交わしてこの間のことを謝罪する。その後は各々の近況について話していく。仕事がどうだとか恋人がどうだとか。まさかアイツが真っ先に結婚するとはだとか。今の話をした。昔の話をした。未来の話をした。話しているうちに式が始まった。優雅な音楽と共に奥から純白のドレスを着た新婦が入ってくる。レッドカーペットの上をゆっくりと歩く。新郎のもとまで行き、二人が並ぶ。水槽の光に照らされて、純白の生地が奇麗に輝いている。
良い結婚式だったと思う。誰かの結婚式になんて初めて出席したので比較対象の無いただの感想ではあるが、良い結婚式だった。かなりの緊張と不安もいつの間にか無くなっていた。けれども少し胸にモヤがかかっている。そんな気がした。
式が終わった後、私は一人で街を歩いていた。皆はそのまま二次会へと向かった。自分も誘われたが断ってしまった。別に行きたくないとか、何か予定があるとかではない。ただ何となく、あそこには自分の居場所がないと感じてしまったからだ。こうやってひとりで歩くことに孤独を感じている。普段ではありえないほどに。そうして帰路につく。
帰宅する。外付けの階段を登り二階にある二〇三号室の扉に手をかけた。ふと目をやると、壁に一匹の蝶が止まっていた。その翅には瞳のような模様があり此方をじいっと見つめているようだった。その模様があまりに気味が悪く感じ、急いで玄関に自分の体を仕舞い込んだ。
また、同じ夢を見る。暗闇の中にひとり居る。周りではポツポツと光が生まれていく。その光に強く引き寄せられるがまたしても半透明の膜に阻まれて近づくことができない。けれど諦めずに膜を突き破ろうとした。何度も何度も膜を押し広げようとした。急に膜から、ぱりんと音がした。ガラスのようにヒビが走る。次の瞬間、私は勢いあまって転がり出た。出ることができた。達成感と高揚に浸っていると背中に違和感を覚えた。振り返ると私の背中には蝶の翅のようなものが生えていた。瞳のような模様を持つそれは、銀色の粉末が光を乱反射させ、ギラギラと光り輝いている。それを見て、これでようやくと思った。
男は目を覚ます。辺りはまだひっそりとしている。窓の外からは街灯の鈍い光だけが射しこみ、冷たい風が吹いている。男は少しの希望と期待を胸にもう一度、眠りについた。部屋には銀色の鱗粉を振りまく一匹の蛾が、街灯の光を求め、くるくると飛び回っていた。




