「愛嬌がなくて家庭教師のようだ」と笑われたので、婚約者の管理を辞めることにしました
「愛嬌がなくて家庭教師のようだ」と笑われたので、婚約者の管理を辞めることにしました
サロンの重いベルベットのカーテンの向こうから、聞き慣れた婚約者の笑い声が響いていた。侯爵令嬢エルゼは銀の盆を両手で支えたまま、扉の前で足を止める。磨き上げられたティーポットの注ぎ口から、ダージリンの細い湯気が立ちのぼっていた。
「あいつのドレス姿を見たか? まるで小麦粉の麻袋にリボンを結んだようだった」
婚約者である公爵令息レオナルドの声だった。続いて二人の令息が噴き出し、甲高い令嬢の笑い声が重なる。午後のお茶会で一番良い席を当然のように使いながら、彼らは持ち込んだ葡萄酒まで開けているらしい。
「おやめくださいませ、レオナルド様。麻袋に失礼ですわ」
「それに、あの生真面目さときたら。母上のお茶会の日程、領地の収支、使用人への指示。会うたびに小言ばかりだ」
「奥様というより、住み込みの家庭教師ですわね」
「全くだ。顔は地味、体つきは寸胴、愛嬌もない。あれが侯爵家の一人娘でなければ、誰が婚約などするものか」
再び笑い声が起こった。エルゼは盆の上で揺れたスプーンを、親指で静かに押さえる。窓の隙間から入った風が、廊下に飾られた百合の香りを運んできた。
かつてなら、刺繍した手袋を夜通し握りしめていただろう。鏡の前でドレスを何度も着替え、少しでも愛嬌のある笑い方を侍女へ尋ねたかもしれない。しかし今、胸の内に残ったのは、長い計算を終えた帳簿のような静けさだけだった。
(ああ。本当に、どうでもよくなったのね)
エルゼは一度息を吐き、背筋を伸ばした。右手で盆を支え、左手でベルベットのカーテンをつかむ。社交界で欠点がないと評された微笑みを浮かべると、勢いよく布を開いた。
サロンにいた四人が、同時にこちらを向いた。レオナルドの手には葡萄酒の杯があり、その隣には黄色いドレスを着た子爵令嬢が座っている。床へ落ちた扇子の音だけが、急に静まった部屋へ響いた。
「皆様、お話に夢中で、喉が渇いていらっしゃるかと思いまして」
エルゼは何も聞かなかったようにローテーブルへ近づいた。銀の盆を置き、茶渋の輪が残ったレオナルドのカップを下げる。温めておいた新しいカップへ、湯気の立つ紅茶を注いだ。
「エ、エルゼ。いつからそこにいた」
「お茶の用意が整った頃からですわ」
「今のは、その、仲間内の冗談だ。お前を本気で麻袋だと思っているわけではない」
「それは安心いたしました。麻袋でしたら、帳簿をつけることも、お茶を淹れることもできませんもの」
エルゼは新しいカップをレオナルドの前へ置いた。続いて、盆の下へ入れていた厚い羊皮紙を一枚取り出す。折り目を伸ばし、彼の正面へ滑らせた。
「こちらをお受け取りくださいませ」
「何だ、これは」
「両家当主が署名済みの婚約解消通知書です」
レオナルドの手から葡萄酒の杯が落ちかけた。赤い雫が白いテーブルクロスへ飛び、子爵令嬢が慌てて裾を引く。彼は羊皮紙をつかみ、最初の一行から何度も読み直した。
「婚約解消だと? 私は同意していないぞ!」
「合意書ではございません。決定事項の通知書です」
「婚約は当人同士のものだ! 父上が勝手に決められるはずがない!」
「レオナルド様は以前、婚約とは家同士の契約であり、私の気持ちは関係ないとおっしゃいました。その言葉を、公爵閣下もよく覚えていらっしゃいましたわ」
「だが、父上がこれを認める理由がない。侯爵家との縁が切れれば、我が家にも損失が出る!」
「ええ。最初は難しいお顔をなさいました」
エルゼは二枚目の羊皮紙を取り出した。そこには王都の金融商三軒の印章と、レオナルド本人の署名が並んでいる。借入額の末尾には、金貨で五桁の数字が記されていた。
「ですから、こちらもお見せいたしました」
レオナルドの唇から音が消えた。取り巻きの令息二人も内容に気づき、椅子を引いて距離を取る。黄色いドレスの令嬢だけが、事情を理解できずに瞬きを繰り返していた。
「裏の賭場でお作りになった借金の一覧です。元金、利息、支払期限を、私が見やすくまとめ直しておきました」
「なぜ、お前がこれを」
「私、家庭教師のように細かい女でございますから」
「これは私個人の借金だ! 婚約とは関係ない!」
「担保として、私の婚資を指定なさいましたね」
エルゼは三枚目を置いた。婚姻後に公爵家へ移される予定だった資金の目録と、それを本人の承諾なく担保へ入れようとした申請書の写しだった。申請書の下には、レオナルドがエルゼの署名をまねて書いた文字が残っている。
「署名までご自分でお書きになったのでしょう? 少々、筆圧が強すぎましたけれど」
「待て。これは違う。賭場の連中が勝手に――」
「言い訳はもう結構ですわ」
声を荒らげたわけではなかった。それでもレオナルドは口を閉じた。エルゼはティーポットの蓋がわずかにずれているのを直し、残る一枚を取り出した。
「公爵閣下は、二つの書類からお選びになりました。婚約解消通知書か、署名偽造と婚資横領未遂に関する告発状か。とても迅速に、こちらへ署名してくださいましたわ」
「父上が、私を見捨てたというのか」
「公爵家を守るためのご判断です。貴族とは、そういうものでございましょう?」
レオナルドは羊皮紙を握り締めた。端がしわになり、父親の印章が指の下へ隠れる。彼の隣にいた子爵令嬢が、ようやく事態を察して腰を浮かせた。
「わ、わたくしは関係ありませんわ。レオナルド様とは、お茶をご一緒していただけですもの」
「ええ。ですから、どうぞ最後までお茶をお楽しみくださいませ」
エルゼは彼女の前にも新しいカップを置いた。黄金色の紅茶が細い弧を描いて注がれる。令嬢は礼を言うことも、カップへ手を伸ばすこともできなかった。
「エルゼ。今の話は謝る。確かに言いすぎた」
「そうですか」
「だが婚約解消までする必要はないだろう。お前は将来、公爵夫人になれるのだぞ」
「愛嬌のない麻袋が、公爵夫人ではお困りでしょう?」
「あれは冗談だと言った! お前の仕事ぶりは認めている。領地の帳簿も、母上の予定も、お前にしか任せられない」
レオナルドは立ち上がり、テーブルの端へ手をついた。ようやく口にした引き止めの理由に、エルゼは目を細める。そこに彼女の顔も、声も、十年間の時間も含まれてはいなかった。
「レオナルド様は、私を妻ではなく、住み込みの家庭教師だと思っていらしたのでしょう?」
「違う。私はただ――」
「ご希望どおり、辞職いたしますわ」
エルゼは腰から鍵束を外した。執務室、書庫、金庫、倉庫の鍵を一本ずつ確かめ、テーブルへ置く。最後に公爵夫人の予定表を閉じ、その上へ重ねた。
「帳簿は昨日までで締めてございます。来月の収支予測、未払いの請求書、契約更新の期限は一覧にしました。新しい管理人が見つかるまで、レオナルド様と皆様で力を合わせてくださいませ」
「待て。来月は収穫祭だぞ。商人との契約はどうする。母上の王宮茶会も迫っている!」
「家庭教師ではない、愛嬌のある方へお頼みください」
「そんな仕事を、普通の令嬢ができるわけがないだろう!」
「では、私が普通ではないことを、ようやくご理解いただけたのですね」
レオナルドは口を開いたまま動かなかった。エルゼは一歩下がり、教本どおりの角度で完璧な礼をする。立ち上がった時、その顔に貼り付いていた社交用の微笑みは消えていた。
「長い間、お世話になりました。皆様も、どうぞ冷めないうちに」
彼女が扉へ向かうと、レオナルドがテーブルを回り込んできた。だが、先ほどまで笑っていた令息の一人が倒した椅子につまずき、足を止める。その隙にエルゼは廊下へ出た。
「エルゼ、待て! お前がいなければ、誰が私の仕事をするんだ!」
重い樫の扉を閉めると、彼の声は途中で遮られた。廊下の窓は開いており、庭から湿った土と若葉の匂いが入ってくる。壁際にはエルゼのトランクを二つ並べ、侍女のテッサが待っていた。
「お嬢様、港までの馬車が参りました。船の切符も、研究室の入室許可証も、こちらにございます」
「ありがとう。忘れ物はないかしら」
「狩猟用の手袋が一組、お部屋に残っております」
エルゼは足を止めた。半年前、レオナルドの誕生日に贈ろうと、夜ごと刺繍した手袋だった。鹿と樫の葉を縫い取るため、何度も指へ針を刺した。
「置いていきましょう。あちらで使うことはないもの」
王都の港から船で三日。海沿いの街には王立アカデミーの植物学研究室があり、山野草の薬効を調べる研究者を募集している。婚約者の機嫌、領地の収支、公爵夫人のお茶会を優先して断り続けた道だった。
馬車へ乗り込むと、テッサが水筒から紅茶を注いだ。揺れる車内で淹れたため、色も濃さも均一ではない。エルゼは両手でカップを包み、一口飲んだ。
「少し冷めてしまいましたね」
「ええ。でも、おいしいわ」
革の手帳を開くと、明日の欄には「午前、船上。午後、海鳥を見る」とだけ書かれていた。領地の収支報告も、公爵夫人のお茶会も、レオナルドの名前も、もうどこにもない。
馬車が動き始める。窓の向こうで公爵邸の門が遠ざかり、代わりに港へ続く広い道が見えてきた。エルゼは冷めた紅茶をもう一口飲み、誰に教わったものでもない笑顔を浮かべた。




