第20話 高校三年生 春~秋 yui
結衣 yui
高校三年生の春がきた。
私は見知った顔の同級生たちに囲まれ、一日の授業を終えたら、まっすぐ家に帰る。
ママにただいまの挨拶をして、冷蔵庫から飲み物を取って、部屋に入る。
ドアを閉め、鞄を置いたら、部屋着に着替える。
部屋着は中学時代に体育の授業で着ていたジャージだ。
座卓の上に、教科書とノートを広げ、座るやいなや、ノートパソコンをスリープ状態から叩き起こす。
レイくんはまだいない。
私は学校から歩いて数分。
強いていえば、マンションのエレベーターに乗って、部屋まで到達するのに少しばかり時間を要する程度だ。
レイくんは、自転車で片道30分かけて学校を行き帰りしているらしい。
たまに、通話を繋いだ時点では、はあはあしているときがある。
私のために急いで来てくれたみたいで、ちょっと興奮する。
自転車に乗ったことがない私には、それがどのくらいの運動量なのか、あまりピンと来なかった。
水泳にたとえると、どのくらいか聞いてみたら、
「泳げない」
とだけ言われてしまった。
私が残念がっていると、
「海を見るのは好きだよ」
レイくんは、イケボでそう教えてくれた。
オンライン状態で、レイくんが入ってくるのをじっと待つ。
この時間も、私はたまらなく好きだった。
待ち合わせみたいで、どきどきした。
「今日もはじめようか」
レイくんはほとんどおしゃべりすることなく、すぐにそう言って勉強をはじめる。
自分も勉強しなきゃってなる。
勉強の邪魔になるから、会話はない。
ノートの上をペンが走る音。
教科書やノートのページをめくる音。
なにかがカチャって鳴る音。
ボトって消しゴムでも落としたのかなって音。
机の上にペンかなにかを置く音。
ペンケースを開けたのかなっていうパカっていう音。
机の引き出しを開けるような音。
謎のカラカラ音や、ぽんっていう音。
鼻をすする音。
ふぅってたまに息を吐く音。
生活音や、息づかい。
勉強しながら、私はレイくんの立てるすべての音に耳を澄ます。
最初のうちは、耳も心臓も忙しくて、集中できない気持ちでいたけれど、レイくんが黙々と勉強しているのがわかるから、私もいつしか、勉強に集中できるようになっていった。
サボっていると思われたら、がっかりされてしまうと思って、私も負けじと勉強しようとしたのだ。
ほんとうにそれだけで、一切の会話もなく、終わる日もよくあった。
「落ちるねー」だけ言って、そそくさと切られちゃうのが普通だ。
レイくんは、割とそっけない。
たまにレイくんの立てる音を聞いていたくて、黙ってその音に耳を傾けていると、こっちが無音になったのを心配して、声をかけてくれることもあった。
「ゆいちゃん、いる? なんも聞こえないや」
「いるよ。いま、教科書読んでた」
私はそんな嘘をつく。
ほんとうはレイくんの音だけを聞いていたのに。
「よかった」
その短いやりとりが、たまらなくうれしかったりした。
機材トラブルとか、通信不良とかを心配しているだけだってことは、わかっている。
それでも、私になにかあったことを心配してくれたり、私がそばにいて欲しいって、レイくんも思ってくれているみたいで、うれしかったのだ。
そうやって、都合のいい妄想を、私は楽しんだ。
たまに行き詰まったのか、単に疲れたのか、「ちょっと休憩する」って言って、レイくんが手を止めるときもある。
すかさず、雑談を申し込む。
応じてくれる日もあれば、雑にあしらわれる日もあったり、「しゃべってないで勉強しなよ」って注意される日もある。
その気まぐれな対応がまた、私の心を盛り上げていた。
ほんとうにたまに、寝る前に長い雑談に応じてくれる日もあった。
どんな話をしたのか覚えてもいないけれど、日常のささいなことを話しながら、とぼけたことを言って、笑いあっていただけのような気がする。
夏休みになると、レイくんは、四六時中、勉強していた。
絶対、どこかでついていけなくなると思っていたけど、たまに勉強のことで質問してきたりするようになって、答えられたり、いっしょに悩んだり、そうやって、定期的な会話があったおかげで、気づけば夏休みは終わっていた。
夏休み明けの模擬試験。
ずーっと200人中100番前後だった校内順位が、急に10番とかになって驚いた。
どうやっても、平均に収まる人生だと思っていたから。
なんなら、身長までちょっとだけ伸びていた。
ずーっと、同年代の日本人女性の平均くらいを推移していたのが、少しだけ飛び出した。
日本人女性の平均身長が、この世代に限って伸びたのかもしれないなと思った。
学力に関しても、きっと同じくらい勉強している集団の中では、真ん中くらいなんだろうなって思う。
それでも、うれしくてレイくんに報告する。
「すごいね。ごぼう抜きだ。ごぼうって、なんか、えっちだよね」
「え、そうかな。同じ根っこのお野菜なら、大根とかのほうが、えっちなやつあるよね」
「ピーマンは、名前が、えっちだよね。業界用語ふうに読んだりしてもさ」
「ちんすこうのほうが、ていうか、なんの話これ」
褒められてうれしい感覚が、気づいたらどっかいってた。
レイくんも模擬試験があったというから、その順位を聞いてみたら、校内では10番以内だったと教えてくれた。
以前は270人中、30~50位くらいだったらしい。
「まわりの人よりは、たくさん勉強してるってことに、なるのかなあ」
「夏休み、どこへも行かずに勉強したもんねえ」
私は勇気を出して、気になっていたことを訊ねようと思った。
どこの学校に通っているのっていう、そういう趣旨の質問を。
志望校も知りたかった。
もし、同じ学校に通えたら、それもいいなって、漠然と思っていたから。
ネット上で知り合った人に、あまり個人情報を訊ねたりするのは、よく思われないだろうし、よろしくないこととはわかっているけれど、お互い高校三年生とか、ある程度知っていることもあるから、そのくらいなら教えてくれるかなと思った。
先に自分が明かさないと、言いにくいだろうと思って、私は自分が通っている学校の名前を、レイくんに伝えた。
「聞いたことないや。どんな学校なの。みんな頭いい?」
「都内にある、私立の中高一貫の女子校。中学からずっと通ってる」
「え、あ、え、へー」
いろんな感情が去来していそうな反応だった。
住んでいる地域に対してなのか、中高一貫に対してなのか、私立であることに対してなのか、どこに心が揺れたのかはわからなかった。
「レイくんは?」
一瞬、迷いが感じられる間があって、レイくんが教えてくれた。
私はすぐさま、スマホで検索してみる。
学校の名前に地域の名前が入っているから、住んでいる自治体はその時点でわかった。
検索結果を見て、公立高校だとわかる。
共学というところに、私は少し、胸がざわつく。
女、いるのか。
しかも、女のほうが人数多いな、この学校。
「女の子が多い学校なんだねえ」
私はジャブを放つ。
「ああ」
ため息みたいな、ああ、だった。
「理系クラスにいるから、まわりには女子、少ないけどね」
「え、そうなんだ」
それはうれしいけど、文系の自分とは志望校かぶらなそうだなと、残念な思いがした。
「大学も理系?」
「うん」
レイくんが教えてくれた志望校は、都内にある理系の国立大だった。
すぐさま、スマホで検索してみる。
9割くらい男子で、万が一、私が合格できたとしても、馴染める気がしなかった。
1割しかいない女子たちと気が合わなかったときのことが、女10割で過ごしてきた私には不安すぎる。
こういう学校を自ら選ぶ女の子って、どんな子なんだろう。
目的を持って入るんだろうから、いろんな意味で、しっかり自立していそうだな。
「私立はお金がかかるからさ。そこだけ受けようかなって」
国立一本で受けるんだ。
レイくんが受験勉強に真剣な理由がわかった気がした。
「地元の大学は受けないんだ」
「ああ。せっかくなら、この家、出たいし。お世話になった人が行ってた大学でもあるから」
「そうなんだ。縁があるんだね」
「別に、その人みたいになりたいかって言ったら、それは遠慮したいけどね」
レイくんは、なんか笑ってた。
私は自分の家が好きすぎて、実家を出たいというのには、共感できなかった。
男の子だし、自立したいってことなのかな。
「ゆいちゃんは?」
私は模擬試験の成績表を見ながら、改めて考えてみる。
「家の近くに、ずっと行きたかった、というか、ママが行かせたかった国立の名門女子大があるんだけどさ。そこを第一志望にしようかなって」
いつの間にか、射程圏内に指先くらいはかかっている実感があった。
家から近いのもあるけれど、私はママを喜ばせてあげたかった。
特に大学に入ってこれがやりたい、あれがやりたいというのがなかったから。
大学に入って、そういうのを探せたらよかった。
「附属の中学に、妹が通ってるんだ。私は中学受験で妹の通う中学は落ちたけどね」
「小学生のうちから、受験生になる人がいるんだねえ」
東京だけなのかな、こういうのって。
「合格したら、お互い都内だから、会えるね」
ふいに、そう声に出しただけだったのに、なんだか気持ちがあがってくる。
「ほんとだね」
レイくんの言葉に、私の気持ちはさらに盛り上がった。
私立の併願校は、レイくんの志望校の沿線から選んじゃおうかな。
それで、帰りに駅で待ち合わせしたりなんかして。
デートしちゃったりなんかして。
終電、なくなっちゃったねえ、みたいな。
俺ん家、泊まってく? みたいな。
あ、よりによって、こんなパンツはいてきちゃった、みたいな。
もうママの顔さえ見れない、みたいなさ。
私の妄想は、留まるところを知らなかった。




