プロローグ
「もうパンツ売るしかないな」
同居人の女が、私の作った料理を、もぐもぐやりながら言う。
「パンティー」
「大事だよ? 尊厳」
私は短く、もっとも重要なことだけを伝える。
この女は、越えてはいけないギリギリのラインを、「フリマアプリでパンツを売る」に設定している。
正直、助かる。
夜の仕事をはじめて、大学に来なくなった同級生の噂を、すでに何人も知っているから。
「時給制という牢獄に囚われている限り、この地獄は終わらないんだ」
私、神山結衣とは別の大学に通う、同じ大学一年生のこの女は、三上玲香という。
この春から、ふたりで同居をはじめた。
「週休が、週休が減るっ!」
玲香は地元にいるときから、受験勉強のために辞めていた期間を除けば、もうずっとコンビニのバイトをしているのだとか。
彼女が言うには、コンビニは全国どこにでもあるから、万が一、なにかあっても、食いっぱぐれがなくていいらしい。
ぜひ、パンツは売らないで欲しい。
◇
私はアルバイトなどはしていない。
だから、玲香がバイトの日は、晩御飯を用意して、帰りを待つことにしている。
玄関の鍵を開ける音がした。
私は台所を出て、彼女を出迎えようとする。
玲香はバイトから帰ってくると、真っ先に洗面所へ向かう。
「おかえり」
明かりのついていない洗面所に向かって声をかけると、玲香が外したブラを振り回しながら、山賊みたいに襲ってきた。
その勢いに、私は思わず笑ってしまう。
私が笑ったことに満足したのか、玲香は真っ暗な洗面所へブラを引き摺りながら、とぼとぼと消えていく。
戻ってくると、振り回していたブラはなくなっていた。
洗濯機に投げ入れてきたみたいだった。
ついでに、靴下もなくなっていた。
彼女は絞めつけられるのが嫌みたいで、家ではノーブラに裸足で過ごす。
座卓を囲んで、晩御飯を食べ終え、食器を片付けようと、彼女が立ちあがってかがむとき、だるだるになった部屋着のTシャツの襟口から、乳首が挨拶してくるときがあって、絶妙に気まずい。
まだ言えてない。
「ちくび」って発声できる関係にあるとは思わないから。
◇
最近の彼女には趣味というか、本人いわく流行のようなものがひとつだけある。
「おかえり」
いつものように廊下で出迎え、声をかけた私を、玲香はキリッとした表情を作って、両手で壁際に追い込んでくる。
「いい子にして、俺を待っていたようだね、結衣ちゃん」
「レイくんはそんなこと言わない」
私の返事を聞くと、玲香は満足げに笑いながら、洗面所へと消えていく。
レイくんというのは、私の初恋の人の名前だ。
玲香は「えっち漫画に出てくるイケメンの物真似」がお気に入りらしい。
よく私に迫ってくる。
イケメンと言えば、レイくんを連想してしまう私は、彼ならそれをやるかどうかという観点で、きゅんとするか、幻滅するかをジャッジしている。
どっちにしても、玲香は満足するので、ただやりたいだけに違いない。
「あのね、玲香」
洗面所から出てきた玲香に、私はあることを伝えようとする。
玲香はきょとんとした顔で立っている。
「おかえり」と声をかけると、奇行がはじまる法則性に、私はようやく気がついたのだ。
知らず知らずのうちに、私は引き金に手をかけてしまっていたらしい。
私にとっては笑えるだけだから、いくらでもやってくれて構わない。
なんなら、好きだ。
ただ、彼女にとってどうかはわからない。
「おかえりって言われたら、ただいまって言えばいいんだよ」
玄関の前で、今日はなにを披露しようかと頭を悩ませ、ストレスを感じている可能性もあるから、私はそう伝えた。
「はい」
玲香は、聞き分けがめちゃくちゃいい。
「ただいま」
なんだかバツの悪そうなその顔が、私にはとても愛おしく感じられた。
そんな三上玲香との出会いは、私たちの高校時代まで遡る。




