第87話 「救いの形」
「グロア=ザナト。この名前を与えてくれたのもコイツだった」
遠い日を思い出すかのように、赤い瞳が細められる。
「何の力も持たぬくせに、願いだけは誰よりも大きい。
救いを求め、理想に縋り、そして破滅した。
どうしようもなく愚かで、傲慢で――哀れな男」
声音には感情の揺らぎが一切なく、ただ事実を読み上げるだけの冷たさがあった。
「……だからこそ、エルノワールには感謝している」
血の魔神は、再び感情のない声で続けた。
「この愚かな男がいなければ、俺はこの世界に入ることも出来なかった。
肉体を維持することも出来ない不安定な存在。漂う者。
エルノワールを依り代とすることで、俺は初めて“生きる”ことが許されたのだから」
自嘲でも誇示でもない。ただ、乾いた真実。
「――それが契約。
俺もまた、コイツを滅びの定めから救ってやったのに」
利害の一致した共犯者。
「……その結果が、吸血鬼の誕生だってのか?」
ここでかつて何が起こったのか、エルノワールがどういう人物だったのか。
俺には、理解など到底及ばない。ただ、この魔神が語る断片的な言葉から推察するのみ。
それでも、この惨劇の起点が目の前に立っていることだけは確かだった。
「それに関しては、俺も望んだ結果ではない。
俺はただ、不滅の肉体を得られればよかった。
他の人間のことなど、最初からどうでもよい」
血の魔神は即座に否定する。
慈悲も同情も微塵もありはしない。
ただ、本能のまま生きる者。
「それなのに……コイツは愚かにも、生き残った全ての人間へと力を分け与えてしまった。
俺の欠片が、切り崩されて行くのは、実に不愉快だったよ。
当然、大半が耐え切れずに死に絶えたがな……」
初めて、僅かな苛立ちが滲む。
「ですが、それによって吸血鬼となり生き残れた人間もいた。
形こそ変われど、救われた者も多い。この私がそうであるように」
静かに割って入ったのはジークハルトだった。
その瞳には、はっきりとした意志の光が宿っている。
「――どうだかなぁ。少なくとも、殆どの者は苦しんでいたぞ?」
血の魔神が、鼻で笑う。
「血衝動に耐え切れず、渇きのまま血を啜る怪物と成り果てた。
無様だったよ。絶望するエルノワールを見るのは……」
ジークハルトの眉が、ぴくりと震える。
「王を名乗ったコイツは、魔物の血だけを吸って生きるなんて夢物語を押し付けた。
人間の血を欲するのは、俺が本来持つ本能だ。
そんな幻想に耐えられたのは、お前くらいのものだろう」
「それでも――!」
ジークハルトの声が熱を帯びた。
「王は誰よりも慈悲深く、高潔だった!
私が生涯を賭して、尽くしたいと願うほどに……!
貴方に、あの方の在り方を嘲る資格などない」
「……それは否定しないさ」
意外にも、血の魔神はあっさりと肯定した。
「コイツは、俺の言葉に耳を貸さなかった。楽な道はいくらでもあっただろうに。
自分一人が助かることを認めず、くだらん理想を求めて、茨の道を行った」
同じ肉体に住まいながら、すれ違う心。
行きつく果ては、決まり切っていた。
「……気に喰わなかった。だから、身体を奪うことにした。
始めは、生きれるだけで良かったのだが、次第に満足がいかなくなるものよな……。
俺も結局は、どうしようもなく傲慢な生き物なのだ」
ニヤリと笑う顔に、歪んだ欲望が滲んだ。
「王が、常に内に秘める何かと戦い続けていたことは知っていた。
それが、貴方だったのですね?」
長年の疑問。
真実を知り、ジークハルトは、低く呟いた。
「そうだ。最初は、簡単に奪えると思っていた。
だが異常者だったよ、コイツは……。
結果、精神をすり減らすのに、途方もない時間を要してしまった」
「悲願は成就したとでも? 止めますよ。貴方を……絶対に」
ジークハルトは、断言する。
その瞳に、鋭い光が宿る。
「残念だが――俺の願いは、まだ叶ってはいない」
血の魔神は、静かに首を振った。
「本当に執念深い男だよ。精神が消えても、肉体だけはいまだ俺を拒絶している。
抗い続け、ボロボロになったこの身体を脱ぎ捨てたいのだ。
だから――次の器を探すことにした」
「器だと――?」
「だから、いま一度すべての力を集めていたのだ。
次なる器に相応しき眷属を、生み出すためにな」
事もなさげに、血の魔神は言い放った。
「最上位吸血鬼のローゼリアとニコラはどうした?
奴らなら器足りえたんじゃないのか?」
ゾルデが、問う。
「――あぁ。俺の眠りを妨げた、あの二人か……。
悪くはなかった。だが、決定的に足りないのは、すぐ分かった」
深紅の瞳が、退屈そうに細められる。
「互いに潰し合い、すでに弱っていたしな。
だから――まとめて吸い尽くしてやった。
実に、耳心地のよい叫び声だったよ」
そこで初めて。
白い犬歯が、無邪気なほどに覗いた。
垣間見える、残酷な本性。
「アイツらを選ぶくらいなら、お前の方がよほど優れているな」
赤い瞳が、俺を射抜いた。
「まずは、お前を器として試してみようじゃないか。
それでダメなら、次に生まれる眷属から探し出せばいい。
もちろん、お前でもいいのだがな、ジーク?」
その声には、逃がさないという圧力があった。
「ふーん。ようやく、話が分かりやすくなったね。
結局は、諸悪の根源であるお前を倒すしかないわけだ」
話を聞き終わり、それでも奇妙なほど冷静だった。
「えぇ――その通りです。
この者はすでに王ではない。ならば、止めてやらねばなりません」
ジークハルトの眼にも、揺るがぬ決意が灯っている。
始祖の身体の持ち主は、かつて人間だった。
ただ、皆を救いたかっただけの善人だったのかもしれない。
だからこそ。
その願いを踏み躙るこの存在を、決して見過ごすことは出来ない。
ここで――血の魔神を討つ。
それだけが。
この地に積み重なった因縁へ終止符を打つ、唯一の救いなのだから。




