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第86話 「祈りの形」


忘却の都。


今やそう呼ばれるその場所も、かつては別の名を持っていた。


二千年前、ここは確かに――聖都アグリオンと呼ばれていた。


北の果て――雪深き山脈。

俗世から切り離された閉ざされた聖域。

そこは、選ばれし敬虔な信徒たちのみが住まう、祈りの理想郷だった。


教皇や大司教をはじめとする、たった数百人。


聖堂教会本堂の信徒たちが、神の導きに従い移り住んだのが始まりである。

険しい山道、魔物の跋扈する森、一般人であれば生きて越えることすら困難な道程。

護衛に数十人規模の冒険者たちを付けたが、犠牲者も多く出た。


それでも彼らは歩みを止めなかった。


神に選ばれし地。

争いなき聖域。

死後、確実に神の御許へ迎えられる約束の地。


その確信だけが、彼らの足を前へと進めていた。


周囲の森には、十分すぎるほどの魔物が棲んでいた。

ここは聖都――食料に困ることはないと、誰もが信じていた。


山々から流れ出る雪解け水は、澄み切った飲料水となり、

日光の届かぬ大空洞では、特殊な野菜すら育てられた。


外界とは異なる環境。

しかし生きる術は、確かにそこに存在していた。

護衛の冒険者の中には、そのまま永住を希望した者もいた。


その穏やかな営みは、百年以上ひっそりと続いた。


緩やかな崩壊が始まったのは、皮肉にも信仰心からだった。

アグリオンの良さを、もっと布教しようと考えた一部の若者たち。

聖都の噂は、始めは異なる神を信仰する者たちへと届けられた。

その軽率な行動が、秘匿され、隔絶されていた聖域を暴いてしまった。


神に最も近き都。

穢れなき者のみが住まう楽園。


もし本当に実在するなら、命を賭してでも辿り着きたいと願う者が現れる。

あらゆる巡礼者は、絶え間なく聖域を目指した。


その動きは活発化し、露見していく。


信徒などではなかった罪人、住む家を持たぬ者たち、居場所のない者たち。

何処からか、その噂を聞きつけた無法者たちが、その列に加わった。


聖域で穏やかに住んでいた者たちは、さぞや驚いただろう。


ボロボロになって辿り着いた者たちは、涙ながらに喜んだ。

彼らは神に感謝し、仲間になることを望んだ。


それを、拒むことなど出来なかった。


門を閉ざすことも出来ただろう。しかし、誰の口からも出なかった。

神を信ずる者を見捨てることは、信仰そのものへの背信である。

それは慈悲深き神への裏切りに等しいと、誰もが疑わなかったからだ。


慈悲の心で、彼らはすべてを受け入れた。


受け入れて“しまった”――それが破滅への選択だと知らぬまま。


数百だった人口は数千へ。

気付けば一万を越すこととなる。


空間には余裕があった。

だが、生存のための均衡は、瞬く間に崩れ始めていた。


慢性的な食料不足。

日光を浴びぬ生活。

極寒の気候。


それだけの人数が集まれば、激変した生活に耐えられない者も多い。

都には徐々に、原因不明の衰弱と疫病が蔓延していった。


理想郷は、ゆっくりと歪んだ。


やがて、人々は恐怖を覚える。

生活に疑念を抱き。

祈りを忘れ。

最後に――互いを憎んだ。


病に侵された者は穢れとされ、祈りの都から容赦なく追放された。

僅かな食料は奪い合われ、ついには同胞の血すら流れ始める。


聖都アグリオン。


その崩壊はあまりにも人間的で、あまりにも避け難い結末だった。


この地が発見されてから――わずか二百年。


理想郷は、自壊した。


神への祈りは怨嗟へと変わり。

敬虔な信仰は怒りへと転じた。


弱き者から死に絶え、奪われる。

最盛期には一万を超えた都は、瞬く間に数を減らしていく。


二千人にも満たぬ末期の集落。


かつてなら、十分に維持できたはずの人口。


だがその頃には、すでに誰一人として狩りへ出る力も、

大地を耕す気力も残されてはいなかった。


終焉だけが、静かに都を覆っていた。



そんな絶望の中、一人の青年は立ち上がった。


彼は、当時の教皇ではない。

大司教でもない。

歴史に名を刻む聖職者ですらない。


ただの、一人のしがない信徒。


しかし彼だけは、確かに聞いていた。


――誰にも届かぬはずの神の声。


導かれるように、彼は動いた。


都に積み上がった無数の骸。

飢えと病に倒れた者たち、奪い合いの末に果てた亡骸を、すべて一箇所へと集める。


誰に命じられたわけでもない。

ただ、声に従っただけだ。

最後に、自身の血で描かれた魔法陣。


もはや、祝詞のりととは似ても似つかぬものだった。


それは祈りなどではない。

神へ捧げる言葉の形を借りた、ただの悲痛な叫び。


世界の理の外側に存在する異質なる何かへ……それは確かに届いた。


山のように積み重なった死体が、全て圧縮するように一点に集まって行く。

耳を塞ぎたくなるような、骨と肉が潰れる湿った音。

噴き出す血の一滴すらも逃さずに、それは小さく、小さく凝集された。


やがて、人一人分ほどの大きさに留まる。


血のような深紅の液体が、ウネウネと人の形を保とうとしている。


確固たる肉体を持たぬ、純然たる力の塊。


人々が夢見た慈悲深き神とは、あまりにもかけ離れた悍ましき神性。


まさに――《血の魔神》。


それでもなお、青年はその異形の存在へ救いを求めた。


飢えから、病から、死の運命から。


この力を借りれば、皆を救うことが出来る。


――そう、信じて。


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