第83話 「決意」
牧歌的と呼ぶには、少しだけ生活の匂いが濃く。
かといって荒涼というほど、寂れてもいない。
静かで、穏やかな街だった。
鄙びた小さな家。
赤い屋根の平屋。
陽射しを受けた洗濯物が、風に揺れている。
庭の隅には小さな畑。
青々とした葉の隙間から、夏野菜が顔を覗かせていた。
額の汗を拭いながら、黙々と土をいじる一人の女性。
その姿を目にした瞬間、胸の奥が不意に締め付けられる。
懐かしさとも違う。
安堵とも違う。
言葉にできない感情が、込み上げてくる。
「――リリス」
呼びかけた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
やがて彼女は顔を上げ、こちらを見た。
その榛色の瞳が、大きく見開かれる。
「あぁ、そんな……ノア様っ」
手にしていた籠を落とし、小走りで駆け寄ってくる。
次の瞬間、柔らかな腕に抱きしめられていた。
「……信じておりました」
震える声。
頬を伝う温かな雫。
「リリスのおかげだよ。本当に……ありがとう」
言葉より先に、視界が滲んだ。
彼女の温もりに触れた途端、封じ込めていた記憶が溢れ出す。
音のない、薄暗い離れの部屋。
閉ざされた窓。
凍えるほど冷たく、息苦しい日々。
それでも、あの場所に確かにあった小さな救い。
ついに堪えきれず、俺も涙を零した。
あの頃と同じように。
まるで、時間だけが巻き戻ったかのようだった。
リリスは故郷へ戻り、慎ましくも穏やかな暮らしを送っていた。
弟はすでに独り立ちし、今は両親とともに暮らしているという。
新しい仕事にも恵まれ、幼馴染と良い仲になっているらしい。
語られる近況の一つ一つが、妙に嬉しかった。
俺が屋敷を出たあと、彼女は間もなく仕事を辞めた。
「……あの場所に、未練などありませんでした」
そう語る横顔は、どこまでも穏やかだった。
「ノア様を、あのように閉じ込めておく暮らし……
ずっと、胸が痛んでおりましたから」
迷いはなかったのだと、静かに笑う。
「そんなことより」と、彼女は目元を紅くしながら、俺の旅路を聞きたがった。
初めての外の世界。
リリスがくれた物が、どれほど役に立ったか。
あの時の銀貨三枚が無かったら、街にも入れなかったこと。
感謝してもしつくせない。
色々な街へ行き。色々な人と出会った。
美味しい物を食べて、戦って、吸血鬼の血が混じっていても受け入れてくれることを知った。
そして今――さらなる戦いに身を投じようとしている。
家に上げてもらい、気づけば日が暮れるまで夢中で話し続けていた。
彼女も時間を忘れて、何度も頷き、微笑んだ。
「クロエさん――貴女も、ノア様と同じ半人半魔の吸血鬼なのですね」
その瞳に恐れはなく、深い慈愛に満ちていた。
「何卒……これからもノア様をよろしくお願いします」
そういって、彼女は深く頭を下げた。
クロエは慌てたように、しかし嬉しそうにしっかりと返事をした。
一通りの話が終わり、俺は今までの恩を返そうとした。
せめてお金だけでも受け取って欲しかったが、彼女は頑なに断った。
今の俺は、そこらの小貴族より余程裕福だ。
だが、そんなことは関係ないのだろう。
ならばと困りごとを尋ねると、セイクリッドとの街道で風鶏が暴れることがあるのだと教えてくれた。
時たま現れるソイツに、行商人たちも手を焼いていたのだ。
「それなら、もう来る途中で倒して食べちゃったよ」
そう告げた瞬間、彼女は声を上げて笑った。
メイドをしていた時、ここまで感情をさらけ出すことなんてなかったのに。
俺は驚いた半面、そのことが何よりも嬉しかった。
結局、それだけで十分だと言われた。
それでも俺は納得できず、森へ入り、街に近い場所に巣食っていたレッドオークの群れを討伐した。
とても消費しきれない量の肉を、彼女へ贈る。
当然のように食べきれず、近隣へ振る舞われ――
その夜、街はささやかな宴に包まれた。
次々と焼かれる肉と野菜。
弾ける脂の音ともに、炭火の匂いが澄んだ夜空へと立ち昇っていく。
何処からか持って来てくれた酒を交わし、弾む笑い声。
リリスの彼氏さんも、優しそうな人で安心した。
とてつもなく、満ち足りた一日。
翌日、俺たちは早々に旅立つことを決めた。
吸血鬼との戦いが始まれば、北寄りに位置するこの街は、格好の餌場になるだろう。
彼女はもう、穏やかな日々を手に入れている。
その幸せは、絶対に守らなければならない。
俺は、決意を新たにした。
振り返ると、リリスはいつまでも手を振り続けていた。
姿が見えなくなる、その瞬間まで。
◇◆◇
それから三日。
俺とクロエは、ハッシュベルト国の首都――アストリアへと辿り着いた。
城壁に守られた巨大都市は、遠目からでも荘厳だった。
壁外には無数に急設テントが立ち並び、異様な熱気に包まれている。
至る所で兵士たちが武具を整え、行き交い、号令が飛び交っている。
まさに、戦の気配だった。
すぐさまゾルデたちと合流するべく足を速める。
この国は、長きにわたり吸血鬼と争い続けてきた。
その諸悪の根源――始祖討伐は、悲願中の悲願だ。
吸血鬼たちの根城が割れ、《闇夜の宴》なる大規模眷属化の計画も掴んだ。
それとほぼ同時に、キャメル国とジパーン国からの協力要請が届く。
断る理由など、あるはずもない。
三国同盟による吸血鬼撲滅作戦のため、続々と戦力が集まりつつあった。
赤月が天を満たすひと月前の出来事である。
「フレイヤ、ジークハルトも待たせたね! それに、リゼンさんたちも久しぶり」
「お帰りなさいませ、主よ。クロエさんも、旅は楽しまれましたか?」
出迎えたジークハルトは、漆黒のローブを目深に被り、口元まで布で覆っていた。
日光を浴びないためとはいえ、どう見ても不審者だ。
ほんの数日離れていただけなのに、仲間の顔を見るだけで妙に安心する。
リゼンたちは、キャメル国で別れてから他の聖銀旅団メンバーや国王との調整を進め、戦支度を整えてくれていた。
おかげで準備は、想像より遥かに進んでいるように見える。
「おや、一段と逞しくなりましたね。ノア君」
神父の装いをしたリゼンが、柔らかく微笑む。
「まぁね。にしても、凄い数が集まったね」
「えぇ! まさか、キャメル国ならず、ジパーン国からの応援要請まで取り付けるとは思っても見ませんでした」
流石だと、リゼンは舌を巻く。
「ところで、ゾルデは……」
と、言いかけた瞬間だった。
「お前らあぁ!! よく、仇を討ってくれたんだな!!」
地鳴りのような声とともに、人混みからバルバルが勢いよく飛び出してきた。
「おぉっ……」
鉄鎧越しに、がっしりと抱き着かれ、太い腕で締め付けられる。
「ぐえ……つ、潰れる……!」
「こらこら、それ以上締め付けたら死んでしまいますよ。バルバル」
リゼンにたしなめられ、ようやくバルバルから解放される。
聞くと、バルバルの故郷の村を滅ぼしたゴードンを討伐した件だった。
危うく死にかけたが、そりゃ喜ぶ訳だ。
「まったく……それより、ゾルデさんでしたね。
彼なら、灰の魔女の元へ行きました」
「灰の魔女? って、誰だっけ。聞いたことあるような……」
記憶の端に引っかかる名。
聞き覚えがあるが、どうにも思い出せない。
「君の血から、血痕羅針という魔導具を作り上げた人物ですよ。
元々はこの国の宮廷魔術師で、大陸随一の魔法使いと呼ばれた女性です」
「あぁ~! その人か!」
「戦力は一人でも多く欲しいですから。
そのために、彼は穢れた沼地まで一人で交渉に行っています。いつ戻るかは分かりませんね」
ゾルデもまた、己の持つあらゆる縁を辿っているのだろう。
やれることはすべてやる。
それだけ、今回の戦争に全てを懸けているんだ。
俺たちがいなかった間に何をしていたのか、ジークハルトたちに教えてもらった。
なんでも、潜伏調査の結果は旅の道中でゾルデに伝え終わっており、やることがなかったようだ。
純粋な吸血鬼である彼は、正体を伏せているため、表立った場所には立てない。
あくまで、先頭に立つのはゾルデやリゼンの役割だった。
そのため、俺とクロエのいなかった間は暇を持て余し、フレイヤに修業の相手になるようお願いされたそうだ。ジークハルト曰く、フレイヤのセンスは元々光るものがあり、あとは実戦経験のみでいくらでも伸びる状態だったという。なのでこの数日、毎日百本というスパルタ手合わせをやっていたそうだ。
よく見たら、フレイヤの手の皮はボロボロに向けており、身体にも痣が至る所に垣間見えた。
ジークハルト相手に、一日中戦闘訓練三昧とは、相当追い込まれたに違いない。
なんて――思ってたのだが。
「ノア殿! 私がどこまで強くなったか知りたいので、手合わせしてください!」
そういう彼女の目は、キラキラと輝いており疲れを微塵も感じさせない。
むしろ、ジークハルトの方がだいぶ疲れているようだった。
ようやくフレイヤから解放されて、心なしか嬉しそうに見えるほどだ。
「ふふっ。フレイヤさん。
主たちは旅でお疲れでしょうから、まずは宿へ案内いたしましょう」
「そうですね、お師匠様! 私としたことが、配慮が出来ていませんでした」
そういって、素直に頭を下げる。
どうやらフレイヤとジークハルトは、謎の師弟関係に落ち着いたようだ。
そんなやり取りの最中だった。
急速に、ざわめきが広がる。
兵士たちが慌てふためき、空を指差した。
視線の先には、上空を旋回する一匹の飛竜。
そこから黄色い閃光が、地面へと落ちる。
――落雷。
いや、それはよく見ると人間で、雷を身に纏っていた。
天空より、颯爽と現れたのはゾルデだった。
「皆、驚かせてすまない」
平然と手を上げながら、周囲に声を掛けている。
「何してんだよ……」
もはや、驚きを通り越して呆れる。
「さすが、天下のゾルデさんは、登場の仕方が違うねぇ」
俺がからかいながら、前に出る。
「――来たか!お前ら!」
俺たちを見て、ゾルデはニヤリと口元を歪ませた。
やけに機嫌が良い。
つまり、灰の魔女とのやりとりが上手くいったことを示していた。
「あの飛竜を操っているのは、まさか――本物の灰の魔女ですか。
あのひねくれものを、よくもこの短期間で説得出来ましたね?」
「あぁ。あのババアは、不老不死にご執心だからな。ノアからもらった血を一本渡したら簡単だったぜ。
吸血鬼はある意味、不老不死に近い存在だからな」
俺がかつて渡した、試験管に入った血を取引に使ったようだ。
まぁ、自由に使って良いとは言っていたし、そんなもんで凄腕の魔法使いが仲間になるなら心強い。
「そうですか――何はともあれ、いよいよ準備が整いましたね、ゾルデさん。
まだ猶予があるとは言え、敵の本拠地への道のりも険しい。
あと数日中に出立することになりますよ」
リゼンが静かに言う。
その瞳には、強い覚悟が宿っている。
最終決戦は近い。
これ以上ない戦力が整いつつあり、準備は万全だった。
互いに視線を交わし、頷く。
「それより、お腹も減ったしさぁ。
ここでは何が有名なの? ゾルデ、どこかいい店紹介してよ――」
軽口を叩きながら、皆で歩み出す。
次の瞬間。
それは唐突に起こった。
身体中の血が沸騰するように熱を帯びる。
「ぐあっ……な、何だ……!?」
激しい動悸。
見ると、クロエとジークハルトも同じように苦しんでいた。
――ドクン。
鼓動が跳ね、視界が揺れる。
――ドクン。
鼓動が、何かに呼ばれるように、強く脈打つ。
この、どうしようもなく呼び寄せられる感覚。
抗い難い衝動。
「これは、まさか――!」
ジークハルトが驚きの声を上げる。
「始祖が……王が目覚めた」
その一言で、空気が凍り付く。
想定よりも、早い目覚め。
だが、その確信だけは誰の胸にも疑いなく刻まれていた。




