第80話 「闇の胎動」
吸血鬼の始祖が眠る、聖なる都――《アグリオン》。
北の果て――
大山脈の心臓部を抉り抜いたかのような、途方もない大空洞。
ここは遥か古代、数万もの人々が暮らしていた聖域である。
空気を満たす濃密な魔素。
深き森には多くの魔獣が棲み、土地としての恵みは確かに存在した。
だが――それでもなお。
人間が住まうには、あまりに過酷な環境だった。
凍てつく吹雪。
夏を除けば、ほぼすべての季節が雪に閉ざされる極寒の地。
にもかかわらず、何故それほどの人間が集い、
そしてこの地は“聖域”として崇められるに至ったのか。
すべてには、理由がある。
そもそも。
大山脈の内部に広がる、これほどの巨大空間。人間の力のみでほじくることなど出来るはずもない。
この大空洞は、初めて人類が発見した時点で、すでに存在していた。
そう、ここは――
《地殻穿蛇ナー・ガラジャ》
かの神獣が、一時の住処としていた場所だった。
地下深く。
岩盤を削り、地殻を喰らい、星の生命力を啜りながら進む存在。
その全長は、一キロメートルを優に超える。
神獣と呼ぶほかない、規格外の怪物。
成熟したその肉体は、数百年の周期で脱皮を行う。
この大空洞は、そのために穿たれた空間であった。
本体が抜け出てなお、蜷局を撒くように佇む、巨大な抜け殻。
朽ちた古皮でさえ、神々しく発光し、魔力を帯びていたという。
伝説の冒険家――《ニコ・ガイル》は、そこに神を見た。
聖堂教会の大司教の元へ赴き、神の存在を伝えた。
半信半疑であった大司教。
しかし、一目見れば、誰もが同じ感覚を抱いた。
教皇もまた同じである。
確かにそこには、神威があった。
敬虔たる信徒たちは、こぞって移住を始めた。
神獣の脱皮殻は、岩壁を補強し、建造物の外壁となり、都そのものを形作っていく。
それが、聖なる都――《アグリオン》の始まりだった。
都が完成した当初。
そこは白く輝く理想郷であったという。
今より、およそ二千二百年前の話である。
この聖域は、信徒以外には秘匿された。
ひっそりと生まれた国。
ひっそりと繁栄し――そして、ひっそりと滅びた。
いまや、その存在を知る者は殆どいない。
そして――今。
冷えた空気が肌へ纏わり付き、遠くで水滴が落ちる音だけが響く。
幾重にもそびえる巨大な石柱が天を支え、都の骨格となる。
荒々しい岩肌には、淡く発光する苔が張り付き、星空のような薄明かりが世界を照らす。
吸血鬼たちにとって、絶対不可侵の天敵――太陽。
その呪いから、この場所は完全に隔絶されていた。
人間たちに見つかることなく、強靭な生命力を持つ吸血鬼だからこそ悠々と暮らせる土地。
彼らにとっても、この地は理想郷となりえた。
その街の奥にある大聖堂。
女神像は胸元から無惨に砕け落ち、残された両腕だけが赤子を大切に抱きかかえている。
その姿は、永遠に叶わぬ救いの象徴。
そんな大聖堂だが、この聖域の真の心臓部はここではない。
巨大な大聖堂によって覆い隠された秘所。
司教位以上にしか、立ち入りを許されなかった禁域。
どこまでも地下へと続く、大穴。
そう――《地殻穿蛇ナー・ガラジャ》が、地底より這い出た痕跡。
崩落を経てもなお、底知れぬ闇。
星の核まで繋がっているのではないかと、竦む程の深淵。
それが、ぽっかりと虚無の口を開けている。
その縁には、螺旋階段が刻まれ、闇に吸い込まれるように続いている。
始祖の眠る棺は、大聖堂の裏手。
大穴を挟み込むような位置、岩壁の奥にある。
亀裂にも似た細い通路を抜けた先。
そこだけが不自然に、広く切り取られた空間がある。
正面には、豪奢な装飾の扉。
本来は、教皇や大司教が、「死後、神へ昇華する」と信じて用意させた墓所。
その聖域を奪い、始祖の安寧の休眠地とした。
幾重にも重ねられた結界。
何人たりとも侵入を許さぬ絶対禁域。
この忘却の都における、真の心臓部。
そこを守護し、吸血鬼の国を実質の支配下に置いている存在。
四人しかいなかった最上位吸血鬼の筆頭。
血薔薇の女王――《ローゼリア》。
女王と、その忠臣六名。
王の眠る棺を守るように、静かに立ちはだかっていた。
平時であれば、影の中には無数の配下が潜んでいる。
だが、この場においてそれはない。
立ち入りを許されるのは、女王に絶対の忠誠を誓った者のみ。
数百年、忠義を捧げ続けた六柱の上位吸血鬼だけだ。
本来ならもう一人、ジェイムズがここに名を連ねていたが、ノアによって屠られている。
興味本位で近づく愚か者など存在しない。
それはつまり、女王の怒りを意味し、死が確定するのだから。
――にもかかわらず。
音もなく、気配すら置き去りにした影が近づいていた。
「あら……まさか、この場へ自ら姿を晒すとは思わなかったわね」
その表情には、確かに驚きを湛えていた。
「ねぇ――ニコラ?」
視線の先。
闇へ誘う者――《ニコラ》が、配下四名を従え静かに姿を現した。
もちろん、この禁域の入り口に立つことの危険性を知らぬはずはない。
この場所の意味も、侵入の代償も、すべて理解した上での行動。
「同族の血を吸うことは、我らにとって最大の禁忌」
衵扇で口元を隠しながら、ローゼリアは告げる。
威厳に溢れる艶やかな声は、刃のごとく冷たい。
「クロードの血を盗み喰らった薄汚い大罪人が……よくもまぁ、ぬけぬけと顔を出せたものね」
呆れた響きとは裏腹に、警戒は極限まで高められていた。
見たことのない秘蔵の配下まで引き連れて、影で蠢く策謀家が真正面から現れた。
それはつまり、戦争を意味する。
「――おやおや、王の復活にしか興味がないのかと思いきや……。
私の行動も、思惑も全て筒抜けでしたか。
まさか、すでに待たれているとは」
ニコラは、悪びれもせず貼り付けたような笑みを見せた。
人外めいた、咲き誇る薔薇のような美貌。
燃え立つような紅の瞳には、確かに怒りが宿っている。
触れれば切れそうな美が、場を沈黙で満たした。
「……当然でしょう。まさか、本気で私を舐めている訳ではないわよね?」
衵扇が、乾いた音を立てて畳まれる。
「舐めるだなんてとんでもない。
いやなぁに……だいぶ、計画が狂っていましてねぇ」
ニコラの声音が僅かに低くなる。
「ここまで育て、肥えさせていたゴードンが王子に横取りされまして……。
このまま王と戦うには、力が足りないのですよ」
露骨な本音。
長い年月――それこそ千年以上かけた計画。
それに暗雲が立ち込めている。
内心、ニコラの心中は穏やかではない。
「まさか、休眠していない状態のゴードンが、やられるなんて思わないわよねぇ。
うふふふ――すべてを手のひらの上で転がしているつもりが、何ひとつ思い通りにならない」
ローゼリアは見透かす瞳で、挑発するように嘲嗤う。
「クロードを破滅に導いたのも貴方なんでしょうけれど、残念ね。
あの坊やも、王子によって力を削がれてしまったのでしょう?
予想よりも少ない力しか手に入らず、今になって焦っている。
これも全ては、偉大なる王の血を継ぐ者を侮ったが故」
一歩、一歩と前に出る。
「焦燥が滲んでいるわよ――無様ね」
「……黙れ」
ニコラの表情から、ついに笑みが消える。
それでも彼女の仕草は優雅で、一片の乱れもない。
猛毒を秘めた花の如き気配が、甘く漂った。
「本当なら、王子を先に始末したいのでしょうけれど、自信がないのでしょう?
貴方は昔から、“臆病者”ですものね!」
「……黙れと言っている」
ニコラの表情は歪んでいく。
確かに、実力を考えればノアを始末してから女王と戦いたかった。
現在、最古の吸血鬼とされるこの女は、尋常ではない。
本来ならば。
クロードの血の後、ゴードンの血も吸収し、万全の状態で挑むはずだった相手。
予定は狂ったが、それでもノアの血さえ手に入れば問題はなかった。
手順が入れ替わろうと、すべての血が集まれば良かったのだ。
そうなれば、この女王が相手でも間違いなく勝てた。
だが、さらなる計算外が一つ。
赤髪の男。
――正体不明のあの男は、恐らくは死に絶えたはずの上位世代。
調べさせた結果、上位世代たちの地下墓地の棺桶の一つが空になっていた。
信じられないことに、ずっと眠っていたのだろう。
闇夜の宴を前にして目覚めた、最悪の不確定要素。
それほどの者が、ノアの配下となれば迂闊には手を出せない。
今もっとも勢いがあり、もっとも危険なのは女王ではなくノアたちだ。
「もうじき悲願は成る」
ニコラは両腕を広げ、天を仰ぐ。
「貴女を殺し、王子を殺し――そして、王を殺す」
狂気の宣誓。
「すべての血を手に入れ、私が次代の王となる!」
「ドブネズミが……身の程を分からせてあげるわ!」
もはや眼前まで近づいたローゼリア。
その瞳が紅蓮に燃え上がる。
その日。
吸血鬼界の二大巨頭が、ついに相まみえた。
闇夜の宴まで、残り一ヶ月。
地の底深く、王の棺は静かに時を待ち続けていた。
いよいよ最終章。
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