第77話 「飢えた怪物 その①」
飢えた怪物は、夜と共に現れた。
金壺眼の奥で、濁った漆黒の瞳がこちらを見据えている。
そこに知性は宿らない。
あるのは飢え。渇き切った略奪者の欲が渦巻くのみ。
異様な熱量を孕んだその視線は、見る者を射すくめ、魂の奥を震わせた。
一歩、また一歩と距離が詰まるたび、原始的な恐怖が呼び起こさせる。
見上げるほど巨大な体躯。
翼のように隆起した広背筋。首を呑み込むほど発達した僧帽筋。
丸太のように太い体幹と四肢は、岩盤のように硬質そうな筋肉の塊だ。
骨格が維持できる限界を超えた筋肉は、まるで重厚な装甲を纏った戦車のようだ。
筋繊維一本一本に、今にも爆発しそうな膨大なエネルギーが充填されている。
「ははっ……実物の方が、数段こえーな」
ここは、《眠れる災厄ゴードン》が、
《蛇王バジリングル》と《幻燐天狐アルルカ》と死闘を繰り広げた場所。
なぎ倒され、砕けた大木たちは片づけられ、外周を囲むように積み上げられている。
まるで、コロシアム。あるいは、神聖な土俵のようだ。
中央で相対するのは、俺とゴードンのみ。
始祖の血に釣られて現れた怪物は、俺を見て、不思議そうに首を傾げた。
「うぅ? ……王……様……?」
これだけ人格が破綻した怪物であっても、始祖の血が持つ香りは特別らしい。
腹が減ろうとも、絶対に手を出してはいけない存在。
涎をボタボタと垂れ流しながらも、本能に縛られ動けずにいた。
「そうだよ、ゴードン。これから一緒に、人間の血を啜りに行こう」
一触即発。
だが、言葉を交わす間もなく刃を交える、という展開にはならなかった。
ならば――次の作戦は、隙を突いた先制攻撃。
可能ならば、初撃で致命傷を与えること。
言葉がどこまで通じるかは分からない。
警戒を緩めることなく、慎重に様子を探る。
俺にディナーへと誘われたゴードンは、頬の筋肉を引き攣らせ、
湿った赤黒い歯茎と、鋭利な牙を黒夜の下に晒した。
震える唇から漏れる、低い笑い声。
(……喜んでるのか?)
飢えと破壊への渇望が満たされる予感に、怪物は魂の底から悦服していた。
凄絶なまでの笑顔。この不細工な貌こそが、彼にとっての最大級の感情表現だった。
ゴードンは、鼻を鳴らし。辺りを見渡す。
取り囲むように積み上げられた大木。
その東と西の二点を指差した。
(バレた……!)
その位置は、ゾルデとクロエ。マグナとフレイヤが、それぞれ潜んでいる場所だった。
何という嗅覚だ。
血の匂いでなくても、潜伏場所を嗅ぎ当てた。
大婆様の記憶の中の映像を見たゾルデたちは、この怪物の弱点を考察した。
圧倒的な破壊の力、そして耐久力。
それは、常軌を逸した高燃費による賜物ではないのか。
異常な飢えも、長期間の休眠を要するのも、高燃費の代償だとしたらどうだろう。
あの戦いの最中。猛毒だと分かっていても、土地神様を喰らうのを止めなかった。
止めなかったのか、止められなかったのか。
そうしないと、身体を維持できないとしたら……辻褄は合う。
ならば、狙いは持久戦。
まずは、俺が単騎で時間を稼ぐ。
俺ならば、よほどでなければ一撃で死ぬことはないし、闇夜も不利にはならない。
開戦と同時に、倒木に火を放ち、光源と逃走防止の両方を確保する。
その様子を、仲間たちにじっくり観察させて、眼を慣らさせる。
攻撃速度、攻撃方法、動きの癖、身体構造。
身体の隅々まで観察し、弱点を見極める。
補給が出来なければ、ゴードンはその力を失うだろう。
当然、奇襲によって傷を負わせれば、回復にも体力を消耗させられる。
馬鹿げた回復力も、無尽蔵ではない。
俺の役割は、とにかく削ること。
もっとも危険で、重要な役割。
この土俵は、ここから逃がさないための舞台装置だ。
だが今、その矛先が仲間たちへと向けられようとしている。
こんなに早く、気づかれるとは思わなかった。
(――くそ!)
ゴードンは、俺に背を向けた。
警戒の様子はない。
どう見ても別人だろうに、始祖の血の匂いだけでそこまで信用するのか。
その背中も、異常に発達した筋肉で守られている。
俺の魔剣でもってしても、本当に致命傷を与えられるのか?
一瞬、不安がよぎる。
――ザシュ!
選んだのは、ふくらはぎ。
(まずは脚を封じる!)
本当なら両足を切り落とすつもりだったが、異様に硬い頸骨に阻まれる。
それでも、左脚はバックリと斬り裂かれ、血が噴き出る。
そのまま膝を付いたため、すかさず首を狙った。
――ガギィ!
未だ俺に背後を向けたまま、折りたたまれた右腕で受け止められた。
またしても、腕は切り落とせずに上腕骨に阻まれた感触だけが残る。
片側ずつだが、腕と足に深手を負わせた。
奇襲としては成功だが、ここで追撃を止めるほど甘くはない。
命まで奪うつもりで猛攻を続ける。
「う”お”お”お”お”おおおぉぉぉおおお!!!!」
馬鹿げた胸筋が大きく波打ったと思うと、大気を引き裂く咆哮が放たれた。
もはや、音というよりは衝撃波。
「ぐああっ……!!」
唐突、かつ想像以上の爆音。
超聴覚を持っていなくても鼓膜がイカれる。
頭が割れたのかと思った。まるで脳震盪だ。
その咆哮は、どこまでも響き渡った。
森の木々が、悲鳴をあげるようにしなり、新緑の若葉が落ちる。
夜目の効かない鳥たちも、錯乱して一斉に飛び立っている。
どこか遠くまで逃げていた魔物たちの耳にも届き、さらに震え上がらせていることだろう。
これほどの規格外生物になると、大声ですら武器になる。
そうこうしている間に、すでに左脚の傷は塞がり始めていた。
「嘘だろっ……!!」
治るのが早すぎる。
骨まで届いた斬撃を、治癒魔法の補助なしにこの速度で?
焦りに任せ、上段に構えた刀を振り下ろす。
――ガンッ!!
しかしそれは、突き出された握りこぶしによって受け止められていた。
斬り裂いたのは、薄皮一枚。
信じられないことに、その拳はまるで金属ハンマーのようだった。
「だったら、凍てつけ……!」
全身から、冷気を帯びた魔力を解き放つ。
そして、魔剣に血をまとわせ斧のような形状にし、さらに凍らせて強化を幾重にも重ね掛けた。
《凍角神鹿ニヴルホーン・グラキエス》の角すら叩き折った、凍血巨斧。
この武器の攻撃力は、折り紙付きだ。
ゴードンも、両腕に血のガントレットを生成する。
激しい打ち込み合い。
この氷の魔力は触れればもちろん、触れなくとも徐々に身体を凍らせ体力を奪う。
――はずだった。
しかし、ゴードンの動きは衰えない。
むしろ、エンジンが掛かってきたかのように鋭さをましていく。
身体からは高温を発し、触れた冷気を蒸気に変えていく。
「がああああぁぁぁっっ!!!!!」
再び、つんざくような咆哮。
頭が割れそうになりながらも、耳を塞ぐ余裕などない。
俺の凍血巨斧は確かに攻撃力は凄まじい。
しかし、両腕を振り回すだけのゴードンの手数に及ばない。
この男、腕力だけではない。
フットワークといい、スピードと反射神経が尋常ではなく、攻撃を当てられない。
ついには、両拳による真剣白刃取りで、俺の凍血巨斧は砕かれた。
(や、やばすぎいいぃ!!)
即座に、中級水魔法――《激渦潮》の渦に取り込み。
そして、上級雷魔法――《蒼雷百嵐》を無詠唱で放った。
水と雷魔法の王道コンボ。
ただ、コイツにそれが効くとは思っていない。
数秒の目くらましさえ出来ればいい。
案の定、平然と激流の牢獄から出てきたゴードン。
その目の前には、火の海に包まれていた。
驚きと共に、振り払おうとする。
だが、馬鹿なりにどこかで分かっていた。
これは――幻であると。
戦いの最中、周囲の倒木に火が付いているのは知っていた。
それにより、外周を囲むように火災が起こっていることも。
それは現実。
また、あの狐の術だ。
と、ゴードンは近くに潜んでいるはずの狐を気配を探る。
そして、ようやく気付いた。
あの男がいないことに。
何もいないはずの空間から、俺が飛び出る――ように見えただろう。
ミラルカたち天狐三匹と協力し、隙を作りだし、十分な魔力を練り上げていた。
幻術の効かない俺をサポートするために、時間をかけて天狐たちは幻術空間を作り出していた。
「血神ノ紋章――《暴食・神威薙》!!」
気付いた時には、もう遅い。
俺の全魔力を注ぎ込んだ渾身の一撃を、袈裟懸けに喰らわす。
心臓まで届いたかは分からない。
だが、まるで間欠泉のように大量の血が噴き出した。
「へへっ……どうだ……」
魔力欠乏による軽い眩暈を覚えつつ、俺はゴードンへとドヤ顔を決めた。
「あとは、任せたよ……みんな!」
その言葉と同時に、入れ違うようにゾルデ達が現れる。
「よくやった、ノア! あとは、俺たちに任せろ!」
最高のおぜん立てをして、俺はバトンを確かに渡したのだった。
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