第75話 「愛しい夢」
最上級治癒魔法――《癒光聖奏》。
リゼンさんが創り出した魔法は、確かに凄まじい。
それは単なる回復ではない。
生命そのものを“正しい在り方”へと調律する、奇跡に限りなく近い魔法だ。
治癒魔法が到達し得る、ひとつの極点。
失われた部位へと、肉を盛り上げ、血脈を編み直す。
光が“治す”のではなく“在るべき姿を思い出させている”ようだ。
一般的に知られる最上級魔法《癒光再編》と比べても、その効果のほどは明らかだった。
だが――消費魔力も、常軌を逸している。
蛇口を捻った、という比喩ですら生温い。
まるで堤防が決壊したかのように、体内の魔力が奔流となって流れ出ていく。
故に、長時間の使用は不可能に近い。
俺の場合、元々が潤沢なダムのように魔力がある。
その上、体内にため込んだ血液を魔力へと変換していくことで、さらに補っている。
そうじゃなきゃ、いかに魔力量に自信のある俺であっても、すぐに干上がっていた。
中級魔法 《エクスヒール》を唱え続けているクロエも、すでに限界が近い。
見違えるほど、治癒魔法の練度が上がっていることに驚いた。
詠唱の安定、魔力制御、治癒精度――どれを取っても、以前とは比べ物にならない。
ジパーン国の負傷者手当など、実践経験を積んだ結果だ。
だが、根本的な魔力量の問題までは覆せない。
「――はぁ、はぁ」
大婆様は、体長七メートルほどの巨躯を持つ九尾の狐だ。
その九本の尻尾まで含めれば、全長は十メートルを軽く超える。
当然、治癒すべき範囲も広大だった。
魔物が本来備える自然治癒力を持ってしても、塞がるような傷じゃない。
捻じれるように折れ曲がっていた左脚は、すでに切断し、断面を塞いである。
それによって出血は止まった。
今は、砕け散った肋骨の先――内臓を傷つけた致命部位の修復に、全力を注いでいる。
ミラルカは、幼子が縋るように、ペロペロと大婆様の身体を舐めていた。
その動き一つひとつが、祈りのように必死だ。
フレイヤも光属性だが、彼女は治癒魔法を習得していない。
光属性魔法使いのうち、治癒魔法に適性を示すのは一、二割程度。
別段、珍しいことではなかった。
それでも力になれない現実が、彼女の胸を締め付けているのだろう。
ただ黙って、大婆様を優しく撫でて、寄り添っている。
マグナはあれから、沈黙を貫いたまま動かない。
ゾルデもまた、事の成り行きを見守るだけだ。
「ごめんなさい……ノアさん。魔力がもう……」
先に魔力切れを起こしたのは、クロエの方だった。
玉のような汗が頬を伝い、指先は小刻みに震えている。
それでも最後まで詠唱を乱さなかったのは、誇っていい。
「十分だよ。クロエが居てくれて助かった。本当に、ありがとう」
そう言いながらも、俺自身も限界が近い。
最近の爆食いで血液量は相当なものになっていたが、無尽蔵というわけじゃない。
戦闘用に確保していた分まで削って、なお足りない。
致命傷は抑えた。
だが、“生き延びられる”ラインには、まだ届いていない。
やりたくはなかったが、最終手段だ。
「――大婆様。ミラルカも……下品なことするけど、許してね」
そう前置きして、先ほど切り落とした左脚へと視線を落とす。
血に塗れた、巨大な脚。
そこにはまだ、神獣としての生命力が色濃く残っている。
手をかざし、血液を引き寄せて――そのまま、ゴクリと呑み込んだ。
その光景を、ミラルカは息を呑んで見つめている。
(――来た!)
力が、奔流となって体内へと流れ込んでくる。
有用なスキルは……何もなし。
幻術系、変化系統も人間には、習得不可能スキルだったようだ。
吸血による“力の略奪”も万能ではない。それは仕方がないことだ。
それよりも今は、この力を魔力に変換出来ればいい。
残る力をすべて注ぎ込むように、 俺は最後の治癒魔法を唱えた。
ダメ押しの治癒魔法を唱え――光が、静かに収束する。
そこで、俺の意識は闇に落ちた。
◇◆◇
夢を見ていた。
それは、記憶の奥底から掬い上げられたような、古い夢だった。
ボロボロの子どもが、大人たちに森に連れて来られる。
そして、その子をご神木に縛り上げて、去っていく。
子どもは怯えて、泣き叫んだ。
縄が肌に食い込み、幼い指が震えている。
人族は、何故そのようなことをする?
自分の牙を使い、その縄を噛み切ってやる。
叫び声も上げれぬほど、怯え慄く子ども。
連れて帰り、食べ物を分け与え、魔物の毛皮をまとわせ温めてやる。
夜毎、傍に寄っては、呼吸の音を確かめた。
大切に、大切に――。
やがて、その子はすくすくと大きくなる。
まるでコマ送りのように、一つ瞬きをすれば、大きくなっていく。
その表情も、明るく変わっていく。
愛しい。愛しい我が子。
次に瞬きをした時、その子は冷たい亡骸になっていた。
昨日までの温もりはどこへ行ってしまったのだろうか。
なんと儚き命だろうか。
まるで火花のように、一瞬煌めいては、消えてしまう命。
せめて、喰ってやろう。
我が血肉となりて、共に生きよう。
この、どこまでも続く、長き時を――。
◇◆◇
「――あれ、ここは?」
目が覚めると、見知らぬ場所にいた。
悲しい夢を見ていた気がする。
どこまでも悲しく、そして愛しい夢。
あぁ――違う。
そうだ。大婆様の治癒に力を使いすぎて、気絶してしまったのだ。
「目覚めたか。ノア!」
ゾルデが、心配そうにのぞき込む。
辺りを見ると、ミラルカの腹部に寄り掛かるように眠っていた。
隣には、寝息を立てるクロエが寄り添っている。
モフモフな毛に包まれて、幸せな空間だ。
「ごめん。魔力がなくなっちゃった……」
大事な戦闘前に、あるまじき行動だ。
ダメだと分かった上で、やめられなかった。
「構わん――今は、休め」
ゾルデは、一切を責めなかった。
「大婆様。身体は大丈夫?」
見ると、大婆様はスヤスヤと眠っていた。
あの苦しそうな荒い呼吸ではない。
どうやら、一命を取り留めたようだ。
ホッと、安堵する。
「ミラルカが、魔物の肉を取って来てくれてな。
料理は出来ている。食べられるなら食べておけ」
見ると、灼熱石を敷いて鍋が作られていた。
串焼きも山ほど用意してある。
腹の虫が、グルグルと鳴き声を上げる。
「大食いのお前らのために、沢山用意した」
さすがゾルデ。頼れる兄貴分だ。
俺は、優しくクロエを揺すり起こすと、夢中で食事にありついた。
◇◆◇
「小僧も起きたようだし、そろそろ敵の正体を教えてもらおうか?」
待ちくたびれたとばかりに、マグナは言った。
事実、すでに陽は昇っている。
彼をこれ以上、つなぎ留めておくのは無理だった。
我慢できず、一人でも向かうだろう。
「いいでしょう。これを見てなお挑むというのなら……もはや止めません」
大婆様は静かに瞳を開け、そう告げた。
九本の尻尾を振るうと、小さな光の粒子が宙を舞う。
同時に魔力が満ち、空気そのものが薄く歪んだ。
なるほど、俺にスキルを習得できない訳だ。
これは五感を支配する幻術だ。
そのためには、空間を満たすナニかがいる。俺にはない物だ。
幻術に掛かるべく、意図的にスキルを閉ざす。
そうじゃなきゃ、俺だけ何も見えない羽目になる。
映し出されたのは、まるで小さな巨人だった。
バルバルよりも、さらに大きい。
理性の色を持たぬ、底なしの眼。
幻術だと理解していても、本能が拒絶反応を起こす。
生物としての極致。
その肉体は、鋼のように鍛え上げられている。
存在理由そのものが破壊であるかのように、
理不尽なまでの筋肉が、限界を無視して膨張していた。
そんな化物は、北の雷獣山脈より現れた。
そして――どこまでも激しく飢えていた。
乾いた怪物は、大森林の魔物を喰い漁った。
目に付く獲物を、片っ端から壊し、潰し、捻じり上げる。
血を絞り、骨を砕き、肉を引き裂く。
まるで、玩具で遊ぶように、生物を壊す。
溢れ出た血液を、品性の欠片もない姿で飲み干す。
満たすのは食欲か、それとも破壊欲か。
その暴虐は、日が暮れてから、夜が明けるまで延々と続いた。
《蛇王バジリングル》。
そして、《幻燐天狐アルルカ》。
二柱の守り神は、戦うことを選んだ。
この災厄は止まらない。
命を賭してでも、殺さねばならなかった。
死闘と呼ぶに相応しい戦い。
大木はなぎ倒され、大地は抉られ、
神域は、血泥まみれの戦場へと成り果てた。
土地神様と呼ばれた存在でさえ、止められない。
その存在は――この世界の理から逸脱した“吸血鬼”だった。
戦闘の最中、アルルカは幻術で分身体を造り出す。
そして、持ち前の高速移動で翻弄し、牙を突き立てる。
だが――
尋常ではない反射神経、速度、膂力。
本能で本体を見抜かれ、追いつき、まずは左脚をひしゃげた。
動きを封じた刹那、その剛腕が肉を砕いた。
ジバリングルもまた、巨体をもって抗う。
毒を撒き散らし、締め上げ、叩きつける。
それでもなお、殺せない。
どれだけ攻撃しようとも、ソイツは立ち上がる。
あまりに頑強な身体、そして再生力。
生き物という範疇を超えていた。
吸血鬼は、ジバリングルの身体を引きちぎっていく。
闘いの最中でさえ、飢えを我慢できずに、その血肉を喰らっていた。
猛毒で血反吐を吐きながら、それでもなお、怒り狂いながらも喰う。
やがて、吸血鬼はボロボロになりながらも、全長二十メートルに及ぶジバリングルを引きずり、巣へと戻った。
どうにか生き延びたアルルカは、己が身を引きずりながら、辛うじて逃げ延びた。
その日――
偉大なる支配者にして、均衡の調停者を失った。
大森林の魔物たちは、荒れに荒れた。
それは、ひとえに恐怖ゆえ。
均衡を崩した森は、新たなる災厄の支配者に、その身を差し出すことになったのだ。




