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第68話 「マグナ・グリムアント」


マグナ・グリムアントは、狂人である。



彼は東の小国――《プレーマ》出身の、平民に過ぎなかった。

生まれも血筋も凡庸。父はただのきこりだった。

父が森で魔物に殺されたことで、十四歳にして冒険者の道を志す。

生きるために、金が必要だった。


冒険者としてすぐに頭角を現し、実績を積んでいく。

当時から、剣も魔法も異様に冴えていた。

命のやり取りの中で研ぎ澄まされていく感覚を、彼は疑いもなく受け入れていた。


東側一帯を支配する大国――《メリカイツ帝国》。

その目に留まるのに、時間はかからなかった。

王室直属の剣として召し抱えられ、国家転覆を企てた反逆者五人をたった一人で返り討ちにしたこともある。気づけば守護騎士の座にあったのは、当然のことだった。


爵位を授かり、貴族の令嬢を娶り、子どもを授かった。


順風満帆。

誰の目にも明らかな、人生の絶頂。


彼は、力だけで全てを手に入れた。


――そして。


その全てを奪ったのもまた、圧倒的な力だった。


帝国西方。

大規模な森林伐採が進められていた地に、突如として一体の魔物が現れた。


《白冥狼王・フェンリル=アルバ》


月光は、その純白の姿を映し出すのを拒むようだった。

一歩踏み出すごとに世界が怯え、大地が震える。

天を裂く遠吠えは、あらゆる生命の心を跪かせた。


猛る狼王が駆け――ひとつの街が地図から消えた。


帝国は総力を挙げた。

一般兵士では歯が立たず、精鋭騎士団、宮廷魔導師、そして守護騎士であるマグナさえも投入し、その先頭に立たせた。あらゆる戦術、魔法、剣術が意味をなさないほどの力。

戦いとは呼べぬほどの、蹂躙。


瓦礫、黒い煙、折り重なる死体。


絶望の中、その瞳に映ったのは――理不尽の極致。

恐ろしくも美しい、力の完成形。


マグナ・グリムアントは理解してしまった。


人間の手では届かない、至高の領域を。

今まで積み上げてきた価値観は音を立てて崩れ、

神々しさすら感じる魔物の姿が、脳裏に焼き付いた。


地位よりも。妻と子よりも。名誉や未来よりも。

まして、自分の命などよりも尊い存在。

全てを捨てることに、迷いはなかった。

そうでもしないと、決して届かぬ領域にあったから。

剣だけを手に、国を出た。


彼は求道者となった。


剣の限界を求め、魔法の限界を求め、修行に明け暮れる。

一つを極めたなら、それを捨て次の一つを探した。

奴を探し出すだけが目的ではない。


俺の手は――あの存在に、届きうるのだと証明したい。


荒野を越え、海を渡り、雪原を踏破した。

世界中をその足で旅し、“神獣”と呼ばれる最強種の痕跡を、執念深く追い続けた。


長い旅の最中、ゾルデという浮浪者のガキを育てたのは、ただの気まぐれだった。

泥水を啜ってでも生きる、不屈の闘志が宿っていた。

見どころがあったから、剣を教え、生き方を叩き込んだ。


情が湧いてしまったのは事実。だが、息子すら捨てた俺に、これ以上何かを与える資格はない。

一端になるのを見届けると、何も言わずに置いていった。


神獣の残滓は、歴史の至る所に残っていた。


秘匿された伝承。

御伽噺に成り果てた真実。

身体の一部が偶然残されていたこともある。


切り立った山脈。湖になった大地。魔力渦巻く禁域……。

それらが、かつて神獣同士の争いの痕跡だと知った。


一つひとつを拾い上げ、丁寧に繋ぎ合わせる。

世界の裏側へと至る、僅かな手がかりを求めて。


――そうして、三十年の月日が流れた。


彼は未だに、神獣と相まみえることが出来ずにいた。

肉体の全盛期はとうに過ぎ、老いは確実に忍び寄っている。


それでもなお。


眼に宿る渇望だけは、微塵も衰えていなかった。

否――その飢えは、年を追うごとに深く、鋭くなっている。


あの日失った全てが、彼を狂人に変えた。


老いた身を支える狂気と剣が――今もなお、彼を蝕み、生かし続けている。




◇◆◇




「……なんで、こんなところにアンタがいるんだ?」


ゾルデは、呆然としていた。


「ハッ――そりゃ、俺の台詞だろ? お前はハッシュベルト国で大成したと聞いてたがなぁ」


マグナは手ぶりを交えながら笑う。

質問の答えはなく、そのまま返された。


「…………俺のことはどうだっていい。質問に答えろ」


しばし沈黙が落ちる。

ゾルデは喉の奥で何かを噛み殺すようにして、言葉を継いだ。


「横の子らは誰だ? まさか、お前の子どもかぁ?」


マグナは答えず、冗談めいた笑みのまま、俺たちへと視線を流した。


老練という言葉が、ピッタリの男だった。


短髪に切りそろえられた髪は、ほとんどが白髪。

無精髭の生えた顔には、深いシワが刻まれている。

六十代くらいの男に見えるが、眼光だけは異様に鋭い。


ゾルデの纏う空気が、はっきりと沈んでいる。

二人の間に、良い関係が残っていないことは明白だった。


「冗談はよせ。こんなデカいガキどもがいてたまるか……。

こいつらは同じ冒険者パーティーだ。魔物被害の助力で、この国にやって来た」


簡単に答えようとしないため、しびれを切らしてゾルデが先に答える。


「そうか……まぁ、俺も似たようなもんさ」


マグナは顎髭を撫でながら、どこか遠くを見るようにして言った。


「マグナ。アンタがそんな高尚な理由で動く訳ねぇだろ?

俺はもう子どもじゃねぇ……そろそろ旅の目的くらい、教えてくれてもいいんじゃねぇのか?」


マグナが何か目的の元、旅をしているのは知っていた。


だが、数年間旅を共にしていても、それを語ることことなく去っていった。


「子どもじゃねぇ、か……。しょんべん臭いガキが言うようになったな」


口元を歪め、懐かしむように鼻で笑う。


「ま、最年少Sランク冒険者。雷帝ゾルデ・グリムアントといったら有名だからなぁ」


二人は、じっと見つめ合う。


その視線の奥で、互いに遠い日の面影を探しているようだった。


マグナの脳裏には、かつての姿がありありと思い浮かんだ。

容赦なく鍛え上げ、それでも泣き言一つ言わずに食らいついて来たゾルデ。

殴り飛ばそうとも、野獣のような覇気を纏わせて、一度だって心が屈しなかった。

とうの昔に捨てたんだ。なのに……。


「――なんで、グリムアントなんて勝手に名乗った?」


唐突に、マグナの眼差しが鋭さを増す。

冗談の色は完全に消え、声には抑えきれない棘が混じっていた。


「…………俺にとっては、育ての親だ。悪いかよ」


ゾルデは、ばつが悪そうにそっぽを向く。

それ以上、言葉はなかった。


なのに――その言葉は、マグナの心に驚くほど、ストンと落ちた。

胸の奥で痛み続けていた悔恨を、一瞬で救ってしまうほどに。


「悪かねぇ」


消え入りそうな声だった。


「悪かねぇが……お前は、馬鹿だよ」


そう言って笑った男の眼には、拭いきれない涙が薄く滲んでいた。



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