第4話「闇と光」
――夜が息を潜めた。
月すらも隠れたその瞬間、“それ”は現れた。
闇よりもなお暗い黒のマントを翻し、音もなく宙に立つ。
風が静まり、まるで世界が怯えるように沈黙した。
その男は、しかし穏やかに笑っていた。
青白い笑顔が、何よりも不気味だった。
「……あぁ、お邪魔をしてしまって申し訳ありません」
声は甘く、滑らかに耳へ溶けてくる。
「わたくしの名はニコラ。闇に誘う者――などと呼ばれております。以後、お見知りおきを」
「……とんだ大物に出くわしたものだ。間違いなく上位の純血種じゃねぇか」
雷光を纏ったゾルデが低く吐き捨てた。
「クフフ、恐れ入ります。かくいうあなたは――かの有名な吸血鬼狩人でしょうか? 噂は耳にしておりますよ。なんでも、我らの眷属たちを狩って回っているとか。恐ろしいお方だ」
そう言いながらも、ニコラの笑みは微動だにしなかった。
このゾルデという男を前にしても、余裕すら感じられる。
視線がゆっくりと俺へと向けられる。
「ところで、あなた様は……? 吸血鬼には見えませんが、確かに“あの方”の血を感じますね」
「“あの方”って、どの方だよ。俺は胎児のときに母親が吸血鬼に咬まれた。ソイツのことか?」
ニコラは愉快そうに目を細めた。
「おぉ……なんと幸運な。我らが王より、その寵愛を頂くとは。
失礼ですが――お名前を伺っても?」
「……ノアだ。その王とやらのおかげで、こんな酷い目に遭ってる」
「それはそれは、お可哀想に」
ニコラは軽く頭を下げ、まるで慈悲深い神官のような口調で続けた。
「この場はわたくしに任せ、お逃げなさい。
もうじき《闇夜の宴》が始まります。それまで、お元気で」
「おいおい、誰が逃げていいって言った? それに、《闇夜の宴》ってなんだ」
「クフフフ……知りたいのですか?」
ニコラの笑顔が、氷のように冷たく歪んだ。
「ならば、そのお力で――わたくしの口を開かせてみてはどうでしょう? お得意なのでしょう?」
ゾルデの双剣に雷が走る。
「……舐めやがって!」
轟音が夜を裂いた。
青白い閃光と黒い闇がぶつかり合う――その瞬間、俺は背を翻した。
屋根の上を駆け抜けながら、背後で爆ぜる雷鳴と闇の咆哮を聞く。
チラリと見たのは、血でできた剣。闇でできたマント。
それが初めて見る――“本物の吸血鬼”という存在だった。
夜空が焼ける。
その下で、ただ一人、俺は息を荒げながら呟いた。
「あんな化物ども……どうやって勝てってんだよ」
◇◆◇
荒れ果てた夜を駆ける。
遠くで雷鳴がまだ尾を引いている。ゾルデの気配も、ニコラの気配ももう感じない。
向かう先は、屋敷を出て西――。
足だけが勝手に動き、行き着いた先は、朽ちた墓地だった。
月は雲に隠れ、風が古い墓標を鳴らす。
人の気配のなどない場所に、ただ一本だけ、ひときわ大きな樹があった。
枝は骨のように広がり、根は地の底へと伸びている。
(あの木だな……)
その根元に、ボロ袋がひとつ転がっていた。
袋を開けると、中には最低限の旅支度が整っている。
革の水袋、研ぎの甘い短剣、火打ち石、乾燥肉、ボロの外套。
さらに、靴が一足。
(靴まで……! ありがとうリリス)
そしてもう一つ、小さな布袋が入っていた。
乾いた花の香りがふわりと立ち昇る。
それはリリスの香だった。
中に入っていたのは、銀貨3枚と、小さな魔石を埋め込んだネックレス。
――それは、慎ましく光を放つお守り。
この世界の親が、子へと送る贈り物であった。
「……そんな。ここまでしてくれるなんて」
確かに、今日この場所に最低限の旅支度を用意してくれる手筈になっていた。
もちろん、それはすべてリリスの善意であり、彼女からの提案だった。
夜の墓地なら誰も立ち寄らないため、確実に荷物を渡せるだろうと。
若い女性が、一人でこんな所に来るのも怖かったはずだ。
指先に残る香りが、胸の奥を熱くした。
――絶対に生き延びる。
俺はネックレスを首に掛け、静かに息を吸い込む。
袋を背負い、俺は墓地を後にした。
『守護石』――この世界では魔石や魔鉱石をもちいた装飾品を子に贈る文化がある。
ネックレス、ピアス、指輪など形は様々。その石には、無事に過ごせるよう祈りが込められている。
ノアは、冒険譚を読む中でそのことを学んだ。かの冒険者も、守護石を胸に旅路へ出たのだから――。




