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第38話「歪められた心」


魅惑の夜侯クロードの元へ、カトレアとラベンダーは逃げ出した。

背を向けて全速力で走っているが、幸いにも追ってくる気配はない。

あの“王の血”を継ぐ少年が、ジェイムズを赤子でも捻るように倒した光景が、頭から離れない。


ジェイムズといえば、血薔薇の女王の腹心の一人。

数百年を生き、血を啜り、誰にも破られなかった男だ。

その名が地に転がるなど、想像すらしたことがなかった。


ノアという青年は異常だ。

最初は軽い気持ちで眺めていた。どうせジェイムズとの抗争は避けられない。

ならば少しでも彼を消耗させてもらえれば御の字……そんな算段だった。

そして、奴らの戦いが終わった直後に奇襲するつもりだった。


ジェイムズが倒れれば女王は激怒する。

まして、我らの手による同士討ちともなれば、どうなるかは火を見るより明らか。

だが責任はすべてノアに押し付け、自分たちは“仇を討った”と言い張る。

それがクロードの命――そのはずだった。


まして、相手はノアだけではない。

ノアの眷属として覚醒したあの女も、ただならぬ強者へと変貌していた。

もはや、十分な脅威と認めざるを得ない存在。


「申し訳ございません、クロード様。あの青年は……我々の手には余ります」


膝を折り、首を垂れる。

“必ず手に入れろ”と命じられていた以上、罰は避けられない。

だが挑めば死ぬ。そんな確信が、骨の髄まで染みついていた。


長年クロードに使え、寵愛ちょうあいも受けてきた。

無駄死にを避けた判断を、もしかしたら許してもらえるかもしれない。

そんな淡い期待を胸に、カトレアはそっと顔を上げる。


バチン――

頬に火花が散った。


「役立たずのお前らを許そう。僕は今、最高に機嫌が良いからね」


痺れが皮膚の奥でじんじんと跳ねる。

頬の痺れに手が震え、唇を噛む。

――甘かった。

主は今、本当に機嫌が良いのだろう。

そうでなければ、血を吸い尽くされて殺されていたかもしれない。


「あの娘……まさか王の血を分け与えられて耐えようとは。クックック。素晴らしい。

まさに《紅月の姫》。僕の女に相応しい!」


クロードは嬉々として両腕を広げた。

その瞳に映っているのは、薄桜色の髪をツインテールにした、可愛らしい少女の姿。

もはや、カトレアなどに興味も失せていた。


「だが、ノアというガキは邪魔だね。

彼女の隣に立つには似つかわしくない。僕が血を飲み干して、すべてを奪うとしよう。

女以外の血は反吐が出るが……王の血を継ぐ者なら特例だ」

「クロード様……!」


カトレアとラベンダーは胸を甘く震わせた。

頬を叩かれたことなど些細な事だ。

例え血を吸いつくされようとも、それでも揺らぐことのない忠誠心。

盲信的なまでに彼女たちはクロードを心酔しているのだ。

その感情が《魅了》によるものだとも気づかずに……。


クロードなら勝てる。

今すぐあの者の所へおもむき仕留めてくれる。

その間、我々があの娘の相手をしていれば良い。

いや、クロードの《魅了》によって、即座に洗脳するのも良いだろう。

二人はそう信じて疑わない。


「しかし、彼らが中々に力を秘めているのも事実。

いかに僕でも、容易くはないね。ここは一度引こう。

今日は彼らの“下見”が出来ただけで十分だ」


一瞬、カトレアの呼吸が止まる。

獲物を目の前にして退くなど、あのクロードにはあり得ない。

つまり――あの青年は、すでに主と同格に至りつつあるということだ。


「……ほ、他の三人はどうなさいますか?」

「放っておけばいい。代わりなんていくらでもいる。

……だが、リリーの方は愉快だったね。あの狩人をついに仕留めれそうだ。

クックック。元婚約者だろう? 覚えてるよ。あのしぶとい男。

でも結果として、最高の幕引きが見れそうだ」


あざけりと愉悦が混じる声。

その視線の先――遥か遠く。


血まみれで膝を付くゾルデ。

その目前で、リリーが剣を振り上げる瞬間だった――。




◇◆◇




ゾルデの前に立つリリー。

相手は吸血鬼とはいえ、上位ではない。

本来のゾルデなら、一合ひとごうも交えず終わる相手だ。

それは、リリー自身もよく理解していた。


「あの時以来ね、ゾルデ」


あの日――すべてを奪い去られた日。

幸せの絶頂。そこから一変、絶望の底へと叩き落された。

クロードに《魅了》で心を奪われ、ゾルデへと襲いかかった最愛の人。

まだ、吸血鬼に対する理解もなく、どうすることも出来ずただ困惑していた。

原因であるクロードに挑むも、上位吸血鬼の力は圧倒的だった。

ゾルデは力及ばず、彼の目の前でリリーを眷属へと変えられしまう。


声は昔のまま、笑みも昔のまま。あの日から何も変わっていない。

その懐かしさだけで、胸が揺れる。


先ほど“容赦しない”と言い切ったばかりなのに。

双剣を握る手が微かに震えた。


「リリー、記憶は残ってるようだな」

「えぇ、もちろん。こんな身体にされたけれど、人間だった頃の記憶は消えないわ」


リリーは静かに血を操り、剣を形づくる。


「助けて……ゾルデ。あの日から、今もずっと魅了をかけられているの。

本当は……こんなことしたくない」


涙を浮かべた瞳のまま、剣を振り下ろす。

見え透いた嘘のはずだった。


だがゾルデには、心臓を掴まれるほど効いた。


その気になれば、一瞬で消し炭にできる。

それだけの修行をしてきた。すべてを吸血鬼狩りに捧げてきたのだ。

けれど今、一方的に剣を受け続けることしかできない。


「ハァ……ハァ……クソッ! お前はもう吸血鬼なんだ。そんな嘘で……!」


「嘘じゃないわ。今でもあなたを“愛してる”」


幸せだった日々が、甘い毒のように脳裏に流れ込む。

その言葉に(すが)りたくなる。


「ゾルデ。私はまだ心が人間のままなの。お願い信じて……」


リリーは血の剣を霧のように消し、両腕を広げた。

思わず身体が硬直し、動けない。彼女を拒絶することが出来ない。

抱き寄せられた身体は温かく、柔らかい。

しかし、その奥にねっとりとした血の匂いが確かに残っている。


“あぁ……もうあの頃のリリーじゃない”



――ザシュッ。


悟った瞬間、背中に激痛が走った。


「ぐあっ……!」


背中に回された両手が、吸血鬼の爪で肉を深く抉った。


「うふふ。ほんとうに馬鹿な男」

「……リリー。お前……」


再び血の剣が生まれ、容赦なく振るわれる。

負った傷が邪魔をして、守るので精一杯。

次々と生まれる生傷が、視界をさらに濁らせる。


「あはははっ!もうあなたのことなんて愛してない。

私が愛しているのはクロード様だけ。

――さっさと私なんて殺してしまえば良かったのに!」


背中を伝う温かい血が、流れ出て冷たく変わっていく。


「それでも……俺は今でも、お前を愛してる」

「……ッ! たわけたことを!」


剣圧が弾け、ゾルデの身体が吹き飛ぶ。


「私があれから、どれだけの人間を襲ったと思う?

どれだけの血を吸い……そして、どれだけクロード様に吸われたと……!」


苦悶と悲しみが混じる表情。

その言葉のどこまでが本音なのか――ただ、間違いなく苦しみ葛藤していた。

胸の奥で、クロードへの憎悪が煮えたぎる。


だが、傷が深すぎた。

ゾルデは膝をつく。双剣を握る手から力が抜けていく。


リリーが迫り、その剣を冷たく振り下ろす。


「さようなら、ゾルデ!」


見上げた視界に映るのは――

あの日から変わらぬ、最愛の彼女の姿。


どれだけ憎しみを募らせようと、結局、手をかけられなかった。

ただ、それでよかった。

最期までリリーを思い続けられたのだから。

ゾルデは静かに眼を閉じる。


――ガキィンッ!


刃が弾かれる音。

影から飛び出したノアが剣を受け止めていた。


「なっ……!」


リリーが驚愕に目を開き、バックステップで距離を取る。


「おい! 何してんだよお前!」


ノアはゾルデへ怒鳴る。


「な、なんで助ける……」

「共闘するって言っただろ。それに人間は見殺しにはしない」


ノアはリリーと向き合う。

白く艶やかな髪。とんでもなく美しい女性――それは確かだ。

だが、強者かといわれればそうではない。

まして、このゾルデを一方的に追い詰めるなど本来ありえない。


(たしか……婚約者とか言ってたよな。そういうことか……)


ゾルデの荒い呼吸を聞きながら、ノアは呟く。


「ゾルデ、あんた案外……人間臭いところあるんだな」

「なんだと……!」

「吸血鬼は皆殺しにするんだろ?

お前にできないなら、俺がやっても良いのか?」

「それは……」


返す言葉が詰まり、喉が鳴る。

それが答えだった。


「分かった。とりあえず殺さずに戦闘不能にする。大人しく休んでろ!」


ノアはゾルデの背に手を当て、流れ出る血を凝固させる。

ほどなくして、クロエも追いついてきた。


「クロエ!こいつにハイポーション飲ませてやって。

できたら治癒魔法も!」


「はい……! うまくいくかわかりませんが、やってみます!」


光と火に適性を持つと分かってから、クロエは真っ先に治癒魔法を練習してきた。

ゾルデを支えるように、ハイポーションを口元まで運び、飲ませる。

そして、すぐさま初級治癒魔法を唱え、あたたかな緑の光がゾルデを包む。


「お、お前ら……!」


ゾルデは戸惑いで顔を歪める。

自分は狩人だ。

一度はノアを半殺しに追い込んだ。

この女も吸血鬼だろう。こんな血を流している俺は、餌にしか見えていないはずだ。

それでも彼らは――自分を助け、リリーを止めようとしている。


信じられなかった。


だが、事実だった。


ゾルデは、ノアの背中を静かに見つめていた。

吸血鬼の血に汚されてなお、人間として生き続けようとする――その姿を。


初めてリアクションが付きました。

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