第3話「狩人」
数刻前。
この屋敷の主――ヴェルナー・ノイマン卿は、一人の男を自室の書斎に通していた。
男の名はゾルデ。
黒髪のくせ毛を無造作に伸ばし、鋭い眼光の下には、眠れぬ夜の名残のような隈が刻まれている。その身に漂うのは、幾多の死線をくぐり抜けた者だけが纏う静かな殺気。
祈りとは無縁の彼の胸で揺れる銀の十字架は、あまりに不釣り合いだった。
彼は“戦慄のゾルデ”と呼ばれるSランク冒険者。
吸血鬼に並々ならぬ憎悪を燃やしていることで有名な狩人だ。
この国が誇る歴戦の猛者がここにいるのには訳がある。
ヴェルナーは新たに第三子を授かって以来、ノアの存在を疎ましく感じていた。
――あの忌まわしい血に汚された子。
しかも近頃では、急速に成長し、すでに少年の姿をしているという。
その成長すら、まるで当てつけのようで、彼には呪いのように思えてならなかった。
「……あの子は呪われている。私たちに害する前に処分して欲しい」
「本当に良いのか? 血は繋がっているんだろう」
ゾルデが低い声で問う。
ヴェルナーは、グラスのワインを揺らしながら小さく頷いた。
「……あぁ。すでに汚された血だ。吸血鬼によってな」
「なるほどな」
ゾルデは薄く笑った。
「わかった。だが、眷属でもない半端者のガキを殺すんだ。報酬は高くつくぞ?」
「構わん。今もあの牢屋で奴が生きてると思うと、ゾッとする。私は安心したいのだ」
「では、明日にでも片づけよう。半端者とは言え怪物だ。大きくなる前に狩るに限る」
その時だった。
――ピピィィィ!!
甲高い警笛が、夜を裂くように響いた。
「……まさか、逃げたのか!?」
ヴェルナーの顔から血の気が引いた。
ゾルデはすぐさま立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。
「面白い……! これが野生の勘ってやつか」
彼の指先から雷光が迸り、窓ガラスが砕け散る。
割れたガラスを踏み砕き、窓枠へと足をかける。
閃光が庭を照らし出す中、暗闇の庭を逃げる子供の影が浮かび上がった。
裸足で走る少年――ノアとゾルデの目が、確かに交わった。
◇◆◇
その眼に睨まれた瞬間、背筋が凍りついた。
あれは――ヤバい。理屈じゃない、本能がそう叫んでいた。
雷光の中で見たあの男の瞳。
まるで獲物を見る目だった。
その男は、三階の窓から迷いなく飛び降りた。
遥か後方。ソイツが着地する音を聞く前に、俺は全力で走り出していた。
恐怖が足を押し出す。
(アイツに追いつかれたら終わる!)
正門はすでに目の前――二人の衛兵が槍を構え、俺を待ち構えていた。
まだ幼い俺を見て、戸惑いと殺気が一瞬に交錯する。
「そこまでだ、止まれ!!」
いや、止まるわけないでしょ。後ろにヤバいのが迫ってんだよ!
俺は剣を抜き放ち、真っ直ぐに走り込んだ。
夜気を裂くように金属の音が響く。
槍の一撃を剣で弾く、避けられないもう一方の突きを――素手で払う。
皮膚が裂け、赤い線が走る。
この程度の傷、どうってことない。半人半魔とはいえ、吸血鬼の血が流れている。
俺は治癒力も生命力も尋常ではないのだ。
(……それより、丁度いい傷だな)
俺は、生まれ持ったスキル『血神ノ紋章』を発動する。
これにより、血をあらゆる形状に操作したり、魔力を消費して増幅させることができる。
五年もの間、牢屋の中で必死に扱い方を学んできた。
傷口から滴る血が、生き物のようにうねり、拳を包み込む。
真紅の光が迸り、その力を数倍に高めてくれる。
人間相手ではないため、ようやく全力が出せる。
「うおおおおッ!!」
――ドゴオォォン!!
拳を振り抜く。
轟音とともに、分厚い正門の閂が砕け散り、門が勢いよく開く。
眼前の街並みから、冷たい夜風が流れ込む。
まるで、身体が軽くなるような安堵。何年も待ち望んだ自由が、確かに広がっていた。
「やった……!」
安堵の声が漏れた瞬間、背後から空気が震えた。
◇◆◇
――ゾクリ
皮膚が逆立ち、背筋を氷の指で撫でられたように震えた。
反射的に身体を捻る。
次の瞬間、雷鳴と共に銀の閃光が飛び、肩口を貫いた。
「――っぐああっ!」
右肩に焼けつくような痛み。
ナイフが深々と突き刺さり、血が滲む。
皮膚の焦げ、鉄と血の匂いが鼻を突いた。
(……追いつかれた!? 速すぎんだろ!)
奴は確かに、屋敷の三階にいた。距離は十分開いていたはず。
それなのに――ほんの一瞬で、もうそこまで迫っている。
俺は歯を食いしばり、銀のナイフを引き抜いた。
そして、地面に叩きつけるとすぐさま走り出す。
『――血神ノ紋章・硬血』
血液を操作し、血を固まらせる。しかし、傷は深く中々塞がりにくいようだ。
銀は吸血鬼にとって猛毒だ。相手はそれを知った上で用いている。
だが半端者の俺にはそこまでの効果はない。
(今の一撃……身体を捻らなきゃ心臓を貫かれてた)
あの男――とにかくヤバすぎる。
尋常ではない殺気が、風圧みたいに肌を叩く。
夜の闇を縫うように走る。
濡れた石畳を蹴るたびに、肩の痛みがズキリと響く。
街灯の少ない裏通りへと足を向ける。
背後から、雷の閃光が背後を照らす。
投げられた二本目のナイフ。
今度はタイミングを合わせて剣を振るい、火花を散らして弾く。
軌道が読める――雷の揺らめきが導線になっている。
だが、その僅かな失速の間にも肉薄してきている。
細い路地に追い込まれ、逃げ場なく向かい合う。
「ほら、追いついた。もう逃げられないぞ?」
声は低く、身体の奥へと響く。
双剣を抜き、狩人が雷の残光を纏って歩み寄る。
ダメだ――やらなきゃ、やられる。
俺は構える。
直後、襲い掛かる無数の斬撃。
俺は剣で受けようとするも、手数も速度も違いすぎる。
鋭い軌跡が皮膚を裂き、赤い線が身体に刻まれる。
それでも、目だけは逸らさない。
ようやく、相手が手を止めた時。
血で強化していた剣は折られ、身体からはボタボタと血が滴っていた。
「はぁ……はぁ……誰なんだよ、お前」
「……俺の名はゾルデ。お前の父親から、お前を殺せと依頼を受けて来た。悪いが、ここまでだよ」
父親。ヴェルナー・ノイマン。
その顔は微かにしか覚えていない。だが、あの冷たい瞳だけは脳裏に浮かぶ。
「なんだよそれ。俺は一滴だって血を飲んだことはない。これからも俺は人間を襲わない。だから――頼む。見逃してくれ」
「その言葉を信用するほど、俺は甘くない。いつか必ずお前は血に飢える。互いに吸血鬼に狂わされた運命を呪うんだな」
ゾルデと名乗った男は、まるで死神だった。
「痛いだろう……俺の武器は全て聖者に祈らせた聖銀を使っている。この双剣『雷哭』もそうだ。銀は吸血鬼にとって毒。それは、半端者のお前にとってもそうだったようだな。血をまるで操作できていない」
「うるせえ……わざとだよ」
俺は大量に流れ出た血を、『血神ノ紋章・霧化』で一気に霧状に変化させる。
シュウッ、と音を立てて赤い霧が噴き上がる。
鉄の匂いが細い通路を満たす。
「……なにっ!?」
ゾルデは、その血を吸うまいと袖で口元を覆い、数歩下がる。
しかし、その距離を埋めるように、今度は『血神ノ紋章・鋭棘』で霧が鋭い針のように尖らせ檻を作る。奴の頬を細い血の針がかすり、僅かに血を流した。
俺はその一瞬の隙に壁を蹴った。左右交互に壁を蹴り屋根の上まで逃げる。
すぐさま傷口の血を急いで凝固させるが、さすがに血の消耗が激しすぎた。
ろくな飯を食べさせてもらえていないせいで、血も魔力も足りていない。
(だが、これで逃げれる)
――そう思ったのも束の間。背後で光の柱が立ち昇った。
「おいおい、今のは驚いたぞ? まさか、半端者がそこまで血を操れるとはな。ここまでの血魔法は見たことがない……」
ゾルデは青白い雷光を身に纏い、屋根上に立っていた。
周囲の暗闇を照らすほどの魔力。さっきまでは、まるで本気を出していなかったのだと思い知らされる。
「……くそ。しつこすぎる」
「よく言われる。執着深い質でな」
――ダメだ。
レベルが違う。俺じゃあ、どうやってもコイツから逃げきれない。
瞳を閉じ、死を覚悟する。
あまりに短い自由。だが、あのまま牢屋の中で死ぬよりはマシか……。
「これは面白い! “あのお方”の血の香りを感じて来てみたら、思わぬ場面に出くわしたものですね」
その声は、ゾルデのものではなかった。
静寂を破る、艶やかで残酷な響き。
暗い夜空に、一人の男が浮いていた。
煌々と輝く深紅の双眸。
圧倒的な存在感が、空気を一段と冷やす。
――本物の吸血鬼が、そこにいた。
『聖銀』――聖者に祈らせた銀。聖職者が神への祈りと祝福を込めて浄化した物。通常の銀では純血種には通用しないため、聖なる波動を帯びた聖銀を用いている。
『怒りの神雷』――ゾルデが最後にみせた青白い雷光を纏う状態。
雷鳴は、神が怒りを示す象徴。信仰を失った神の雷を宿し、鉄槌を下す。
最上位の身体強化魔法の一つ。




