第20話「抗えぬ本能」
――時は遡る。
その日、受けた依頼は街道付近に出没したヴァルクル。
必ず群れを成すためCランクだが、個々はDランク相当の狼。
以前食ったが肉は不味く、魔石も小さい。まぁ、ギルドポイント目的なら悪くない。
早々に達成条件である五匹を討伐して、証明用に耳を剥ぎ取っていた時のことである。
遠くで乾いた衝突音。そして、かすかに漂う、懐かしくも豊かな香りを感じ取った。
急ぎ駆けつけると、そこには冬眠明けのアーマーベアが暴れ狂っていた。
Bランクの魔物だが、かつて洞窟で冬眠中していた個体を食べたことがある。
行商の荷馬車を叩き壊し、倒れた御者の前に立ちはだかっている。
その御者の女性は戦ったのだろうが、剣を折られ、血を流して意識を失っていた。
血が滲むコートが風に震えている。
迷う間もなく、即座に戦闘態勢に入る。
しかし、アーマーベアも俺の存在に気づいたようだ。
闇の刃を放つが、ことごとく装甲のような前腕に弾かれてしまう。
生半可な攻撃では、あの硬さを貫けやしない。
ならばと、水魔法をぶっかけて、雷魔法で硬直させる。
自分一人で行う連携攻撃。複数属性の魔法が使えると、こういうことも出来るのだ。
痙攣し動きが鈍ったところを、今度こそ黒刃を放って喉を断った。
――そして、現在。
壊れた荷馬車、死んだ魔物、傷を負った女性が目の前にある。
女性の肩が、かすかに上下している。
どうにか生きているようだ。
早く助けないと――そう分かっているのに。
先ほどからいい香りが、気になって仕方ない。
この匂いに釣られて、まさかとは思って慌てて来たのだが、近づいたことで確信に変わった。
この豊潤で食欲をかきたてる香り。
そう、《醤油》の匂いだ!
甘く、深く、鼻の奥を刺激する。
見ると傾いた荷台に積んである壺、それの蓋が外れて液がこぼれている。
あの美しい黒色。
間違いなく醤油だ……!
ほんの一滴でいい。
今すぐ指ですくって舐めとりたい。
いやしかし、傷ついた女性をほっぽいて醤油を舐めるなど、それは食欲に支配された怪物ではないか。
そう思いつつも、脳内には醤油をかけた卵かけご飯が浮かんでいる。
くそっ……俺は理性ある人間。
まずは、この女性を助ける。
その上で、恩を売ったお返しに醤油を分けてもらうのだ。
決して、打算的な行動ではない。本当に違う。
でも、絶対に醤油は分けてもらう。
なんなら、言い値を払ってもいい。
醤油には、それだけの価値があるのだから……。
◇◆◇
「助けていただいてありがとうございました。まだ春前なのにアーマーベアに出くわすとは……」
「無事でよかったです。これ、ハイポーションですのでどうぞ。
傷は思ったより深くはなさそうですが、ちゃんと治療しないとです」
小瓶を差し出すと、彼女はそれをぎゅっと抱えて、勢いよく飲み干した。
ふふふ、飲んだな?
タダより高い物はない。着々と恩を売っていっている。
これならば、醤油を分けて欲しいといっても断れまい。
「行商のようですが、一人で移動は危ないのでは? 街まで送りますよ」
「こう見えてBランクの冒険者もやっているのです。さすがに冬眠明けのアーマーベア相手では歯が立たず、情けない。しかし、馬車も壊されてしまい、積み荷をどうしたものか……」
馬車の車輪は斜めに折れ、簡単には直せない。
幸い馬車を引いていた馬二頭は無事なので、荷物を積めるだけ積んで街まで行けるだろう。
しかし、行商人が馬車本体を捨てていくのは辛かろう。彼女の肩が大きく落ちている。
これはチャンスだ。
救いの手を差し伸べつつ、醤油を手に入れられる。
「積んである液体は良い匂いがしますね。良ければ俺が買い取りますよ?」
「えっ、本当ですか!? これは醤油というものです。
実は、商業都市でさばき切れず、仕方なく砦街アーデルへと向かっていたんです。
買っていただけるならありがたいです。いや、しかし……命の恩人に売りつけるというのも」
「ちなみに、その醤油一壺分をいくらで?」
「普通なら、小金貨一枚ですね」
「買います!!」
あまりの返事の早さに、彼女は目を見開いて驚いている。
しかし、この壺いっぱいの醤油が小金貨一枚なら安すぎる。
「本当に、何とお礼をいったら良いか……。これであとはこっちを捌ければ帰れます」
「ん? そちらの壺には別の何かが?」
「これも私の出身国であるジパーンから持ち込んだものなんです。美味しいのですが、見た目が悪くて、不評でして……」
壺の蓋を開けたとたん、本能を刺激する芳醇な香りに襲われた。
ぐあああぁぁぁ!?
この香り――味噌だ!!
このデカい壺に味噌がぎっしり入ってやがった!!
なるほど、俺からしたら当たり前だが、知らない奴からしたウ〇コにしか見えないもんな……。
これの美味さが周知されていない世界とは、嘆かわしい!
「これも壺ごと買います!!!」
「そ、そんな……こちらは一壺で小金貨二枚にもなるんですが」
「では、それぞれ二壺ずついただきます。小金貨六枚で良いですね?」
再び、最近の稼ぎをすべて使い込んでしまった。
俺の財布が泣いている。そして、行商人の彼女も泣いている。
「あなたのことは生涯忘れません。私の名前はトモハス。どうか、お名前を教えてください」
俺もあなたのことを忘れないよ。
おかげさまで、未来の食卓が祝福を歌っている。
醤油と味噌を同時に手に入れたのだ。これは文明復興の第一歩――人類史に刻まれるレベルの偉業だ。
「俺の名前はノア。こちらこそ、ありがとうございます!!」
固い握手。
彼女は両手で俺の手を掴み、俺も両腕でしっかりと返した。
我が食卓に、黄金の光が差し込んだ瞬間だった。
――この日、前触れもなく、唐突に幸せに出会えたのだった。
◇◆◇
――それは、数百年も昔のこと。ジパーン国で起こった。
とある山奥にある社にて。
豊穣神への供え物を行う。
季節は梅雨。
茹でた穀物と豆、そして清めの塩とともに、神前に積み祈る。
一週間後、巫女が供物を下げようとしたとき、不思議な香りが満ちていた。
神官は言った。
“これは神が口にした痕跡だ”
その現象が何なのか、分かるわけもない。
しかし、それこそが初めての《発酵》であった。
容易く見逃されるはずのソレを、信仰が守ったのだ。
やがて時代は流れ、発酵は研究され、安定化する方法が模索されていく。
白い奇跡――麴菌の発見によって、やがて醤油や味噌へと辿り着き、
新たな食文化が根付いた。
神の味は、やがて民の味になったのだ。
トモハスさん。
黒髪を高い位置で結った、利発そうな美人行商人。兼Bランク冒険者。
袴風のズボンに革の胸当てが、どこか和風な装いに感じる。
普段は、同じくBランク冒険者の兄とともに行商をしていたのだが、最近の兄は体調不良。
危険を承知で、無理して一人で売りに来ていた。
家族思いの頑張り屋さん。
※醤油も味噌も、異世界なので本来は別の呼び名があります。
しかし、混乱を招くと思うので、イメージし易い醤油と味噌の名前のまま書き進めます。




