第2話「作戦決行」
「この本、返すね。すごく面白かった」
俺は布団の下に隠していた本を取り出すと、リリスは静かに頷いた。
ここを去ったら、もう二度と彼女とは会えない。
これが最後の会話になる。そう思うと、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「これでお別れだね……リリス、今まで本当にありがとう」
「それでは……ご武運を」
彼女の美しい顔が、わずかに震える。
頬に伝う涙が細い線を描く。
その瞳は深い湖のように澄んでいて――俺は、しばし言葉を失った。
(俺なんかのために、涙を流してくれるのか)
そのことが何よりも嬉しくて、気づけば俺の目からも涙が溢れていた。
彼女は間違いなく俺にとって母親のような存在だった。
言葉を教えてくれただけじゃない。伸びた髪を切ってくれたり、服を縫ってくれたこともあった。
こんな地獄のような生活を耐えてこられたのも、彼女がいたからに他ならない。
「うっ……うぅ……」
様々な思い出が蘇り、涙となってこぼれていく。
リリスはそんな俺をそっと抱きしめる。
その腕は温かく、柔らかい身体から伝わる体温がどこまでも優しかった。
「ノア様……どうか、どうかご無事で」
俺は何も言えずに頷くことしかできず、そっとリリスの手を離す。
名残惜しそうに去っていく彼女の後ろ姿を、ただ目に焼き付けていた。
◇◆◇
夜が深まり、屋敷は静けさに包まれる。
(――そろそろ行くか)
泣きはらした目で、俺はゆっくりと立ち上がった。
決行したら、もう後には引き返せない。
夜間の方が警備は手薄。
それに俺は半魔だ。暗闇の中でも目が利く。吸血鬼の血が、夜を味方にしてくれるのだ。
リリスが教えてくれた兵士の配置を、頭で反芻する。
まずは鍵をかけられた扉と、その部屋を守る衛兵。
さらにはこの離れの入り口を守る衛兵が二人。
最後に屋敷の正門にも二人だ。
高位貴族の屋敷とあって、外壁は高いらしく、俺でも飛び越えられなさそうだ。
他の仲間を呼ばれる前に、何とか正門を抜けなければならない。
捕まれば、待っているのは確実な死だ。
だが、屋敷を抜けさえすれば、闇夜に紛れて逃げ切れるだろう。
(まずは、作戦通りに……)
俺は扉の影に身を寄せ、声を絞り出すように呻いた。
腹に力を込め、息を荒げる。顔に苦悶を浮かべ、手を胸に当てて倒れこむふりをする。
「ぐっ……ああっ……」
外の衛兵が異変に気づき、扉の小窓から中を覗く。
それを待って、俺は意識を失ったふりをした。
「おいおい、嘘だろ……坊ちゃん大丈夫か!?」
――カチャリ。
慌てて鍵が開けられ、扉が開く。
その瞬間、すぐさま身体を起こし、入って来た衛兵の手を掴んで引き込んだ。
声を上げる隙も与えず、すぐさま背後から首を締めて意識を落とす。
気絶した男をゆっくりと、床に寝かせる。
俺は心まで魔物になった訳ではない。ここの奴らに恨みはあれど、命まで奪うつもりはないのだ。
ふと、男が腰から提げていた剣が目に入る。
何の変哲もない物だが、自衛のために役には立つだろう。
(悪いけど、拝借させてもらうよ)
ベルトごと奪い、身に着ける。
通路の先にいる、屋敷前の衛兵には気づかれなかったようだ。
音を立てないように、するすると扉まで辿り着く。
耳を澄ますと、扉越しに衛兵二人の雑談が聞こえる。
ここをバレずに出ることは出来ない。ここからはスピードとの勝負だ。
心の中で一拍置き、呼吸を整える。
――内側から扉を静かに開く。
衛兵二人は揃ってこちらを見て、驚きで目を見開く。
視線が交差する。
「――っ!?」
相手が状況を理解するよりも早く、俺は咄嗟に動く。
一人の顎めがけ拳を叩き込み、もう一人のみぞおちへ肘を打ち込む。
二人は呻き声とともに、悶絶するように崩れ落ちた。
俺はそのまま庭へと飛び出すと、正門を目指して走る。
生まれて初めての全力疾走。風が頬を切る感覚に、生を実感する。
――ピピィィィ!!
背後から、耳を突き刺すような警笛が夜を裂いた。
片方は意識まで刈り取れなかったようだ。
殺したくなくて、手加減をし過ぎた。
「くそっ……!」
警笛は瞬く間に連鎖し、屋敷中から別の笛の音が応えていく。
正門の衛兵も、合図を受けて警戒を強めたに違いない。
どのみち、逃げ切る以外に選択肢はない。
追われる恐怖心と同時に、俺は確かな興奮を感じていた。
濡れた草を蹴って前へ踏み出す。
夜の冷気が肺を満たす。
そのすべてが、俺にとっての自由そのものだった。
――その時。
屋敷から、窓ガラスを割って閃光が走る。
バリィィン――!!
空を裂く雷光が、一瞬で夜を照らした。
(な、なんだ!?)
振り返った先、屋敷の三階の窓辺に一人の男の姿が映る。
身を乗り出すように、黒外套の男が無言で俺を見下ろしていた。
『リリス』――24歳の儚げな美人。平民の出で、働いて家族に仕送りしている。16才からこの屋敷で働いており、歳の離れた弟がいるが、しばらく会えていない。ノアを見ていると、幼少期から貧しい生活をしていた弟を思い出す。




