第19話「期待のホープ」
――あれから、数日が過ぎた。
俺は、Cランクの依頼を中心にこなしている。淡々と、けれど着実に。
気づけば、仕事帰りの靴はボロボロで泥にまみれている。
(身長も伸びたし、そろそろ新しい靴を買うか……)
妙なもんだ。
アンクルさん達と鍋を囲んだ夜を境に、ギルドでの空気が変わった。
噂は足より速い。
新人なのに水晶蟹を退けた天才とか、最高品質の収納指輪持ちだとか、
料理人泣かせの天才料理冒険者だとか……。
3割増しで誇張されていくのが噂というものだ。
実際、依頼は順調だ。
新人なのにCランク依頼を黙々と片づければ、信憑性が勝手に増してしまう。
おかげで最近は、中堅の冒険者からも声がかかる。
「ソロは確かに効率が良いが危険も多い。良かったら、一緒に組まないか?」
「お前は逸材だ。上を目指すならうちに来いよ」
ありがたい話だが、全部断っている。
一人でやると決めているし、今はまだ、この道を自分の足で踏みしめたい。
そんな中――カノンまでも声をかけてきたのには驚いた。
いや、先輩に誘ってくるように言われたのだろう。
「ノア、お前最近凄いみたいだな。
どうだ、うちのパーティーに来ないか? 先輩たちも良い人だしさ」
さすが冒険者たち、使えると分かれば即座に手を伸ばす。
合理的で、抜け目がない。
ただ、胸の奥で、小さなざらつきが残った。
あのときの視線と、今の視線。
同じ人間が、同じ声で、違う色をしている。
(……まあいい。世界なんて、そんなもんだ)
彼らの感情や考えも理解できる。文句などない。
誰も悪くない、みんな一生懸命なだけなんだ。
「誘ってくれてありがとうカノン。でも、俺は一人が気楽だからさ……断るよ」
それだけ言って、その場を立ち去る。
カノンは良い奴だ。その気持ちは今も変わってない。
でも、もう少しだけ一人で自由に生きていたい。
心から信頼しあえる人に出会えるまで……それまでは、ソロ冒険者としてやっていく。
俺は、今日も一人で依頼書をめくる。
◇◆◇
(……どうしてこんなことになったのだろう?)
ある日を境に、ギルドでの空気が変わったように。
見えない流れが渦を巻いて、誰も気づかないうちに風向きが入れ替わる。
人生においても、潮目が変わるのは一瞬だ。
平坦だった日々が、良い方向に転がる瞬間がある。
逆に、理不尽なほど悪い方向に転がる瞬間もある。
そのことに、たいてい前触れなんてなくて、いつだって唐突だ。
今日はその「唐突」がやって来ただけのこと。
いま俺の前に転がっているのは壊れた荷馬車。
地面には倒れているのは、俺が先ほど殺した魔物。
そして、血を流し横たわる女性。
(怪我をしてるから、早く助けないと……)
そう思ってはいるのに、呼吸が乱れて動けない。
胸がきしみ、視界がぼやける。
変だ。焦ってるだけか?
――いや、違う。
この“香り”のせいだ。
重く、濃く、望んで止まない香り……これが頭の奥を痺れさせる。
鼻腔の奥にまとわりついて離れない。
彼女に一歩近づくたびに、その香りが濃くなり、確信に変わる。
腹が鳴りそうになるのを、歯を噛みしめて押し殺す。
それでも、制御できない涎が喉の奥に溜まり続ける。
(……我慢しろ。ダメだ、今は我慢するんだ)
かろうじて保たれる理性が、軋んでいる。
「……大丈夫ですか」
震える声で、彼女の肩に触れた。
すぐ目の前、触れそうなほどの距離で赤い血がこぼれている。
風が吹くたびに、濃くて、芳しい香りがさらに広がる。
所詮、俺は理性の効かない怪物なのか。
この香りの元はもう分かっている。すぐそこでもう見えているのだから。
一口で良いから、今すぐに指ですくって舐めてしまいたい。
――だが、それをしてしまったらもう後には戻れない。
俺は叫んだ。
声にならない咆哮を、心の内で叫び続けていた……。
――本能には抗えない。




