第13話「動き出す影」
北の果て――山の心臓をくり抜いたような大空洞。
そこには、遥か昔、数万の人々が住んでいたであろう、忘れらた街が広がっていた。
ここは、かつて祈りが満ちていた聖なる地。
だが今は、誰の声も届かない。
ひやりとした空気が肌に張り付き、遠くで水滴が落ちる音だけが響く。
幾重もの巨大な石柱が、天を支え。
岩肌には淡い光の苔が張り付き、星空のような薄明かりだけが残っている。
その街の大聖堂。
女神像は胸元から砕け落ち、残った腕は赤子を大切に抱きかかえている。
その姿は、永遠に叶わぬ救いの象徴。
カツッ、カツッ――ヒールの甲高い足音が、静寂を破る。
「……あら、ニコラ。久しぶりね?」
血のように艶やかな赤髪。ゆったりと微笑む女――血薔薇の女王 《ローゼリア》。
この世の者とは思えぬほどの美貌となまめかしい肢体は、闇の中に咲く一輪の花。
「ええ、五年ぶりでしょうか。血薔薇の君もお変わりないようで」
薄く笑みを浮かべたのは、黒に身を包んだ男。闇に誘う者 《ニコラ》。
すべてを見透かすような不気味な瞳。
「ふむ、珍しい組み合わせだ。我らをわざわざ呼び寄せるとは、何か良いことでもあったのかな? まだ、あの方の目覚めには早いと思ったが?」
金髪の美男子が姿を現す。魅惑の夜侯 《クロード》。
その立ち振る舞いのみならず、声すら優雅さを纏っている。
ニコラの口元が、うっとりと緩む。
「……実はですね。あのお方の純粋な眷属が見つかったのですよ」
その一言で、空気が凍る。
時が止まったかのような沈黙の果てに、彼女が声を荒げた。
「なんですって!?……まさか、始祖の血を継ぐ者が現れたというの?」
ローゼリアの瞳が大きく開かれる。その表情は驚愕に満ちていた。
「ええ。驚く事に半分は人間でしたが、確かに“あのお方”と同じ血。しかも、とても濃い匂いを感じました」
「……耐えた? だとすれば二千年ぶりじゃないの? 」
ローゼリアの唇が震え――次の瞬間、笑った。
それは美ではなく、獣の欲望がむき出しになった獰猛な笑み。
「おやおや、血薔薇の君。抜け駆けはいけませんよ? 《闇夜の宴》も近いのですから……」
ニコラが心底愉快そうに目を細める。
「無理もない。半分はまだ人間なのだろう? いったいどんな味がするのやら。それに……」
そこまで言って、クロードは言い淀む。
だが、何を言わんとしたかは伝わっていた。
濃厚な“王の血”を飲めるということ。その意味を――。
ここにいる純血種と呼ばれる三人ですら、王の血が僅かに薄れている。
今は亡き2000年前の王直系の眷属たち。その者たちから血を分けられた眷属に過ぎないのだ。
眷属がさらなる眷属を作る。そうしていくうちに王の血はだんだんと薄れていく。
いかに血を吸い、力を高めようとも覆すことのできない差。
だが、方法がないわけではない。
『同胞喰い』、つまり共食いすることで血を奪うことができる。
しかし、それは許されざる“絶対の禁忌”であった。
言葉にすることも躊躇われるほどの。
それでも“半分人間”という言葉が、まるで免罪符のような響きを持っていたのも事実。
「……まぁ良い。それより、貴殿はなぜソイツを連れてこなかった?」
話を変えるように、問う。
クロードの声色には、ニコラを責めるような棘が含まれている。
「ちょっとした邪魔が入りましてね。彼の有名な吸血鬼狩人、《戦慄のゾルデ》さんと出くわしまして……」
「あぁ、アイツか。あの末端の眷属どもを殺して息巻いている輩だろ。 殺したのか?」
「誰よそれ。そんな小物のせいで連れてこれなかったと、言い逃れするつもりじゃないでしょうね」
三人の空気が、さらに重く沈む。
「残念ながらそのまさかですよ。なかなかお強く、仲間まで来たので撤退を強いられました。お恥ずかしい限りです」
言葉とは裏腹に、にこやかな笑みのまま。
「あなたが逃げた? どうせ滑稽な様が面白くて生かしておいただけでしょう。それとも別の悪だくみに使うつもり?」
「おおかた、闇夜の宴での余興にでもするんだろ」
二人にはまるで信じてもらえない。
しかし、図星だったのか、ニコラは肩をすくめた。
「ところで……ゴードンさんを見かけませんね。もう30年近く寝ていませんか? 我らが王に失礼なのでは」
「そういうなら、あなたが起こしてきたら? 私は嫌よ、まだ死にたくないもの」
ローゼリアの声が冷ややかに響く。
「前回も起こそうと躍起になって、僕の下僕が何人か犠牲になった……。あんな“災厄”は眠らせておけよ」
「クフフ……その節は申し訳ございませんでした。次はわたくしめが手を打ちましょう。わたくしが伝えたかったことは、済みましたので。では闇夜の宴でまた――」
そう言い残し、ニコラの姿が闇に溶けて消える。
続いてクロードも気配ごと霧散した。
残されたのは、ローゼリアただ一人。
「本当に食えない男……」
ニコラは人はおろか吸血鬼すらも、誘い、弄び、破滅させる。
今回は、王の血をつぐ半人半魔の情報なんてものを持ってきた。
(この私すらも、手の上で転がそうなんてね)
……でも良いわ、乗ってあげる。
あんな小僧なんかに、先を越されてたまるものですか。
あの方の血を持つ子供は、絶対に私のモノにする。
「来なさい、ジェイムズ」
「はっ、ローゼリア様」
黒髪の男がローゼリアの影より飛び出し、すぐさまひざまずく。
「話は聞いていたわね? 手下を連れていき、必ず生かして連れて来なさい」
「仰せのままに、我が女王よ」
男の姿が再び闇に溶け、静寂が戻る。
「あぁ~はやく赤月にならないかしら!」
白い腕で自分の身体を抱きしめ、うっとりと身をくねらせる。
「あの方の目覚めが待ち遠しい……我が愛しの王、《エルノワール様》!」
ローゼリアの笑い声が、不吉な聖域に残響を残す。
薄明かりの星々が揺れ、闇が静かに脈打つ。
眠りし吸血鬼の王は、いまだ大地の底で沈黙を守っていた――。
半人半魔と眷属の違い――。
本来であれば、吸血鬼になれなかった半端者という立ち位置。
眷属の眷属の眷属……のように、まったんが故に血が薄くて出来そこなった者。
大抵の者はそうならずに、血に負けて死んでしまう。そのため、ごくまれにしか現れない稀有な存在。当然、力も眷属にすら遥かに劣る。
しかし、ノアは違う。
本来であれば、“王の血”を分け与えられた母は、耐えきれずに命を落とすはずだった。
それをまだ胎児であったノアが、母の死を拒み、王の血をすべて飲み干して救った。
その“絶対の力”を完全に抑え込んでおり、吸血鬼にならずに留めたといえる。
つまり、劣っているが故ではなく、圧倒的に優れているが故に半人半魔を保てている。
力を抑えたからこそ人であり、血に選ばれたが故に魔である。
矛盾の上に立つ、あり得ざる均衡。
――それがノア。
前世での徳が天にまで積もったか。
異世界より来た魂を持つゆえのギフテッドなのか。
はたまた、偶然にも血の神に愛されただけなのか。
その力の理由は、誰にも分からない……。




