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第1話「終わりと目覚め」


――この世界は、生まれた時から冷たかった。


冬の光は細く、鉄格子がはめ込まれた窓から差し込むその光は、部屋のほこりを白く浮かび上がらせる。

石畳の床は氷のように冷え、裸足の足裏がじんと痛んでしまう。

暖炉などない狭い部屋。堅いベッドの上で、俺は毛布に身を包み、白い息をひとつ吐いた。


この屋敷の離れ――牢屋と呼んでも差し支えないその場所には、耳鳴りがするほどの静寂が支配していた。

俺は静かに眼を閉じ、孤独に耐えながら、ただ時が経つのを待っている。


カチャリ。

扉の施錠が外される音が、冷たい空気の中に響く。


「ノア様。朝食をお持ちしました」


声の主はリリス。

淡い栗色の髪を三つ編みにしてまとめた彼女は、微笑むだけで空気が和らぐ。

どこかはかなげな姿をしており、整った顔立ちの美人だ。


この屋敷のメイドの一人で、嫌われ者の俺にとって唯一の味方だった。

いつもなら朝食は固いパンとスープのみだが、リリスが当番の日だけは、干し肉や小さなチーズをこっそりと忍ばせてくれる。俺にとって何よりの贅沢だった。


「……いつもありがとう、リリス」

「このくらい当然です。それより、誰かに見つかれば叱られちゃいますから」

「うん。バレないように早く食べるね」


温かいスープにパンを浸しかじる。濃厚なチーズの香りが口に広がり、冷えた身体の芯が温まる。温かいスープを用意してくれるのも、ここじゃ当たり前じゃない。その様子を彼女は微笑みながら見つめている。彼女の優しさが身に染み、冷えた空気までもが少しだけやわらぐ気がした。


「それとこちらなのですが、新しい本をお持ちしました」


肩からげたカバンから、革表紙の一冊を取り出す。


「これって……冒険譚ぼうけんたんの続きじゃんか!」


思わず声が弾むと、彼女は目を細めて笑った。

彼女はこうして、たまに外の本を持って来てくれる。俺にとって、外界を知る術は彼女の話と本だけだ。読み書きなどを教えてくれたのも、このリリスだった。生まれてから五年間、外の世界を夢想しながら憧れ続けていたのだ。顔もおぼろげな父母と違い、彼女だけが――“特別”だった。


けれど、そんな小さな部屋せかいで過ごす日々にも、もう終わりを告げようと思っている。


「いつもありがとう、リリス。実は俺、もうすぐ外に出ようと思う」

「ノア様? 何を言って……」

「外の世界を自由に旅してみたいんだ。この本の冒険者みたくさ……」


俺はすでに、覚悟を決めている。

一生を、こんな牢獄のような場所で過ごす気はない。

半人半魔のこの身体ならば、こんな部屋出ようと思えばいつでも出れるのだ。

そのために五年間も耐え、この力の使い方を磨いてきた。


「左様でございますか……。それで決行はいつに?」


リリスは真剣な眼差しで俺を見つめた。止めるつもりは微塵もない。

彼女はきっと――こうなる日を分かっていたのだろう。


「リリスに迷惑はかけたくない。だから、君のいない時に出るつもり」

「……かしこまりました。僭越せんえつながら、作戦成功のためにいくつか進言させていただきます」


その言葉に、俺は思わず笑みをこぼす。

リリスは、やはり特別だ。

この世界で初めてできた“味方”が、確かにここにいる。


こうして、彼女の助言を受けながら――決行の日を静かに待った。




◇◆◇




――俺は、異世界転生者である。


前世では何の取り柄もなく、誰からも感謝されることのない冴えない男だった。

そんな俺の、ただ一つの取り柄が“献血”だった。

いや、趣味と言った方が正しいかもしれない。


O型のRhマイナスの血を持つ俺は、誰にでも輸血できる“万能供血者”だ。

初めての献血で、ソレが日本人の0.5%しかいないと聞いた時、自分の存在の全てを肯定できたほど誇らしかった。


献血に行くたびに看護師さんに「助かります」と感謝される。それに10回、30回、50回……と、節目ごとに記念品が贈呈ぞうていされると来た。それがあまりに嬉しくて――気づけば生きがいになっていた。


そして、あの日もいつも通り400mlの献血を終えた後だった。


献血後に配られるお菓子とジュースでほっと一息。

今日も誰かの役に立てた。

そう思いながら帰路につく。充足した、誇らしい一日になるはずだった。


だが、それは――通り魔という凶刃に出くわすことにより、あっけなく終わりを迎える。


逃げることも出来ただろう。

しかし、通り魔が道沿いにいた妊婦に狙いを定めた時、俺の身体は自然と動いていた。

根っからのお人よし。こんな時ですら、他人のことを見捨てられない性格が憎い。


かばった俺の腹を、容赦なく貫く刃。

息が詰まり、視界がグラりと揺れる。

冷たい地面に倒れ、溢れる血が、地面を伝っていくのが見える。


(ふざけんなよ……俺は0.5%しかいない万能供血者だぞ……)

(こんなに血を無駄にするなんて……もったいないだろ……)


どうせ死ぬくらいなら、血の一滴まで搾り取って献血に差し出したい。

そんな未練を抱いたまま、俺は静かに意識を手放した。



◇◆◇



……そして、目を覚ました時。

俺は、この世界の赤子に生まれ変わっていた。


最初は夢だと思った。

当然の如く混乱したが、時間が経つにつれ、否応なく理解する。


異世界転生をしたのだと。


しかも、よりによって生まれた環境が最悪だった。

母親は妊娠中、魔物である吸血鬼ヴァンパイアに襲われ、血を吸われたという。

母自身は吸血鬼の眷属けんぞくにならずに済んだが、胎児の俺はその血にむしばまれてしまった。

死産にこそならなかったが、その影響で半人半魔の吸血鬼として生を受けたのだ。


両親の髪色とまるで違う黒髪。

そして、深紅の瞳。


生まれた瞬間の、あの絶叫。

母の恐怖と嫌悪が混ざった声は、今でも耳にこびりついている。


俺は“み子”なのだ。


不幸中の幸いにして、父親が高位貴族だった。

子どもができにくく、長年待ち望んだ嫡男であったため、処分されずに済んだ。

魔物として殺すのは容易いが、次の子が授かる保証はない。だからこそ隔離という形で生かされた。


半人半魔の身体は、必ずしも血を必要とせず、人間と同じ食事だけでも生きていける。

外見も人間と見分けがつかない。唯一、この少し伸びた犬歯だけが俺の正体を物語っていた。

それでも――人として扱われなかったのは、まぁ……仕方ないと思っている。


リリスの話によると、母親は精神を病み、屋敷を去ったという。

父は別の女と再婚し、すると、すぐに新しい子を授かった。

俺の存在価値は、その瞬間に完全に失われた。


それでも殺されていないのは、慈悲か――ただの気まぐれなのだろう。



……何にせよ、それが俺がこうなった経緯いきさつだ。


五年の歳月を、この狭い部屋で耐えていたのだ。

吸血鬼ヴァンパイアの血のせいか成長速度も速く、すでに身体は十二、三歳ほどと変わらない。

この日をずっと待っていた。


俺は明日――逃亡を決行する。


長い孤独の果てに、ようやく“生きる”ための第一歩を踏み出すのだ。



献血の回数に応じて、感謝の意を表す褒賞が贈呈される。

10回、30回、50回、70回、100回など、節目に贈られる。

有田焼の小皿や、感謝状、ガラス製のさかずきなど様々。


全血献血200ml・400ml、成分献血などの種類により、一定の間隔を開けなければならないため、回数をこなす目的なら200mlがおススメ。ちなみに、著者は貧血気味なので献血はしたことはない。

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