第八章 レナの部屋で
雨が降っていた。
傘を持たず、濡れながら歩いたのは、美由紀の意志だった。
水滴に濡れることで、自分が“生身”であることを確かめたかったのかもしれない。
レナの部屋は、あのサロンの近くにあった。
古いマンションの一室。中に入ると、あの夜と同じ、スパイスのような香りが鼻をかすめた。
「来たのね、美由紀ちゃん」
レナは、笑わなかった。
その静けさに、逆に安心した。
「やっぱり、わたし……ちゃんと知りたい。自分が何を欲しがってるのか」
美由紀の言葉に、レナは一歩近づいた。
「いいわ。今夜はあなたの“本音”を、わたしが見てあげる」
**
レナの部屋は、広くはなかった。
けれどその一角には、まるで“舞台”のような空間があった。
革のベルト。絹のロープ。小さな蝋燭。口に出せない用途の小道具。
美由紀は服を脱ぎながら、身体が震えていた。
羞恥ではない。
期待と、恐れと、自分でも説明のつかない興奮。
「美由紀ちゃん、“女”になるって、どういうことかわかる?」
「……わからない。でも、“誰かにゆだねること”だと思う」
その言葉に、レナは笑みを浮かべた。
「正解よ。だから、あなたは今から、わたしに全部ゆだねなさい」
ロープが肌を這う感覚は、想像していたよりずっと繊細だった。
一本、また一本と絡みついていくたびに、美由紀の“てつ”が脱がされていく気がした。
そして――
「怖い?」
「……ちょっとだけ。でも、ちゃんとわたし、ここにいる」
「いい子」
蝋燭の炎が、わずかに傾いだ。
滴る蝋の熱が、肌に落ちた瞬間、短い息が漏れた。
「痛みは、あなたの境界線を溶かしてくれる」
レナの声は、まるで祈りのようだった。
快楽と痛み。その境界線が、次第に曖昧になっていく。
縛られ、囁かれ、熱を与えられながら、美由紀の心の奥に沈んでいた「わたし」が、ゆっくりと目を開けていく。
(わたしは、ここにいる)
どんなに矛盾していても、どれだけ他人に説明できなくても――
この身体が、この痛みが、快感が、「美由紀」という存在を確かに形づくっていた。
**
夜が明ける頃、美由紀はまだレナのベッドにいた。
跡がついた肌。赤くなった手首。けれどそのすべてが、誇りのようだった。
レナが言った。
「あなたは、もう“戻れない”わね。でも、それでいいのよ。わたしたちは、“この世界”でしか息ができないんだから」
美由紀は、ゆっくりと頷いた。
(わたしは、美由紀として、生きていく)
その朝、美由紀の中の“てつ”は、静かに目を閉じた。
次回:第九章「暴かれる秘密」
慎との関係が深まる中、美由紀の“秘密”が意図せずして彼に伝わってしまう。
レナとの夜の痕跡が、愛と信頼の均衡を揺るがせていく――。