第七章 あなたに触れられるとき
慎と会う日が、週に一度のリズムになっていた。
「てつ」と呼ばれることに、最初は胸が痛んだ。けれど、慎の隣にいるときだけは、その名前が少しだけ許せた。
彼は、美由紀の“中身”を、言葉にせずとも見つめようとする人だった。
「今のお前、いい顔してるな」
居酒屋の灯りの下で言われたそのひとことが、胸に染みた。
言葉では伝えていない。それでも、慎は“今のわたし”を受け止めようとしている。
それがどれだけ救いだったか、美由紀自身が驚くほどだった。
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その夜、慎の部屋へ行った。
「今日は、ちょっとだけ飲みすぎたな」と笑う彼の隣で、美由紀は息を呑んだ。
慎の部屋は、思っていたよりもずっと生活感にあふれていて、そこに自分がいることが、なぜか不思議だった。
シャツの袖をまくる音。ソファに沈み込む身体。
慎は、美由紀の方を見て、ふと真面目な顔になった。
「……今、てつじゃなくて、美由紀って呼んでもいいか?」
その言葉は、胸の奥を突いた。
名前を呼ばれるということが、こんなに“存在”を肯定されることなのだと、初めて知った。
「……うん。呼んで」
「美由紀」
たったそれだけで、世界の輪郭が変わった気がした。
慎の手が、そっと美由紀の頬に触れた。
「……本当に、綺麗だよ」
それが“女として”の言葉かどうかはわからない。
でも、美由紀の心は、確かに震えていた。
唇が触れた瞬間、頭の中が真っ白になった。
抱きしめられるたび、“男の自分”が剥がれていくような錯覚に陥った。
触れられ、包まれ、少しずつ身体の奥が「わたし」になっていく。
でも――どこかで、恐れもあった。
(このまま抱かれたら、私は“誰”になるんだろう)
慎の優しさは、美由紀を“美由紀”として扱ってくれる。
けれど同時に、自分が本当に“女”ではないことを思い出させる。
レナの言葉がふいに浮かんだ。
「あなた、“支配されること”を欲しているのよ。優しさだけじゃ、満たされないって、きっと気づくときが来る」
慎の手は、あたたかくて、やさしい。
だけど、やさしさの奥で、美由紀の“深いところ”がまだ疼いていた。
「ごめん、慎……今日は、ここまででいい?」
美由紀がそう言うと、慎は何も聞かず、そっと頷いてくれた。
**
帰り道、夜風に髪が揺れる。
(わたしは、何を欲しているんだろう)
愛か、快楽か。
やさしさか、痛みか。
女として、抱かれることか、それとも――服従することか。
答えは、まだ出なかった。
けれど一つだけ、確かにわかっていることがあった。
わたしはもう、“てつ”では戻れない。
次回:第八章「レナの部屋で」
慎との関係に揺れる中、美由紀は再びレナに会いにいく。
そこで待っていたのは、“美由紀”という存在を試す夜。
揺らぎの中、彼女は快楽と痛みの境界線に触れてしまう――。