第六章 二つの扉
土曜日の夜。
美由紀は部屋のベッドに座り、スマホを握りしめていた。
画面には、レナからのメッセージ。
「美由紀ちゃんが来てくれるって信じてるわ。あの“扉”を見せたいの」
その文字の背後に、レナの息づかいさえ感じられるようだった。
一方で、慎からも連絡があった。
「今夜、空いてる? よかったら、飲みに行かない?」
慎の声は、穏やかだった。昔と同じ、変わらない優しさ。
でも今の美由紀には、それが時に残酷にすら思えた。
(私はどっちに向かえばいいの?)
鏡の中の自分は、どこか曖昧だった。
ワンピースを着た身体。けれど、まだ完全に“女”とは言えない顔。
選ばなければならない気がした。
いや、本当は、すでにどちらかに傾いていたのかもしれない。
美由紀はワンピースを脱いで、ジーンズに着替えた。
そして、慎に「行くよ」と返した。
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居酒屋のカウンター席。
慎はビールを頼み、美由紀はレモンサワーを選んだ。
「てつ、お前、やっぱ変わったな」
慎は真っ直ぐに言った。
「雰囲気が柔らかくなったっていうか……いや、悪い意味じゃない。ただ、前よりずっと、繊細な感じがする」
言葉に詰まる。
嘘をつくこともできたけれど、美由紀はもう、隠すことに疲れていた。
「ねえ、慎。……もし、俺が“女”として生きていきたいって言ったら、どうする?」
静かな時間が流れた。
慎はグラスの縁を指でなぞりながら、ゆっくり答えた。
「驚くとは思う。でも……それでもお前なら、俺は受け止めたいと思う」
美由紀の目に、かすかな涙が浮かんだ。
「……ありがとう」
その夜、美由紀はレナの誘いを断った。
けれどそれは、“拒絶”ではなかった。ただ、今はまだ踏み出せないという意思表示だった。
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数日後、レナと再会した。
「来なかったわね」
レナは微笑みながら言ったが、その奥には冷たい視線があった。
「ごめん。……でも、まだわたし、ちゃんと“決めきれてない”んだと思う」
レナはしばらく黙って、それからため息をついた。
「いいのよ。無理に引きずり込む気はない。でも、扉は開けたままにしておくわ。あなたが、もう一歩深く入りたくなったときのために」
**
選びきれないまま、美由紀はふたつの世界の狭間に立っていた。
“愛される”ことでしか自分を肯定できないのか。
“支配される”ことでしか自分を委ねられないのか。
どちらも間違いではない。
けれど――どちらにもなりきれない“いまのわたし”が、そこにいた。
次回:第七章「あなたに触れられるとき」
慎との関係は次第に深まり、美由紀は初めて「愛されること」と「抱かれること」の境界線に立たされる。
一方、レナの世界でしか得られない“快楽”が、美由紀の身体をかすかに揺らし始めていた。