第三章 夜の街に、わたしはいた
週末の夜。
街の明かりがゆっくりと色を変えていく頃、てつ――いや、美由紀は、小さく息を吐いた。
家の鏡の前で、最後にリップを引き直す。手は少し震えていた。
ワンピースは光沢のない深緑。派手ではないが、落ち着いた女らしさが漂う。ヒールは、初心者用にとAmazonのレビューを読み漁って選んだ低めのもの。
ウィッグはまだぎこちない。でも、鏡の中の彼女――“美由紀”は、そこにいた。
ぎこちなく、まだ不完全。でも、確かに息をして、心を持っている。
(夜の街に出てみたい)
そう思ったのは、きっと「誰かに見てほしかった」からだ。
――こんなわたしでも、ここにいていいのかって。誰かに、認めてもらいたかった。
タクシーに乗り、運転手の目を見られずに下を向いた。
行き先は、ネットで見つけたバー。「女装子歓迎」と小さく書かれたその店は、新宿の外れにひっそりと存在していた。
初めてのその扉は、思ったより軽く開いた。
中は薄暗くて、静かだった。ジャズが流れ、カウンターにはすでに何人かの人影があった。
その一人が、こちらを向いた。
「こんばんは。……初めて?」
落ち着いた低い声の主は、白のスーツを纏った、どこか妖艶な女性だった。いや、すぐにわかった。彼女も“女装子”だった。
「……はい。今日、初めて……」
震える声を聞いて、その人はにこりと微笑んだ。
「緊張してるでしょ。大丈夫、誰でも最初はそうよ。名前、教えてくれる?」
一瞬、ためらってから、彼女――美由紀は答えた。
「……美由紀です」
その名前を口にするのは初めてだった。
でも、口にした瞬間、胸の奥に灯がともった。
「美由紀ちゃん。いい名前ね。私はレナ。よろしくね」
差し出された手を、自然と握り返していた。
その夜、美由紀は初めて「わたし」として他人と会話をし、笑い、グラスを交わした。
レナの話す夜の世界、女装子たちの“光と闇”、揺れ動く心――それはすべて初めて聞く物語で、でもなぜか懐かしかった。
店を出たとき、新宿の夜はもう深くなっていた。
でも、美由紀の中には、灯が消えずに残っていた。
「わたし、ここにいていいんだね……」
そう呟いた声は、風に消えていったけれど、確かに“わたし”のものだった。
次回:第四章「レナとの邂逅」
レナという存在が、美由紀に世界の扉を開いていく。甘い誘惑と、崩れていく境界線。初めて知る「心と身体の交錯」。