第二章 鏡の中の誰か
翌朝、てつは目覚めてすぐ、夢だったのではないかと疑った。
前夜、自分が何をしていたのか。あのピンク色の下着。ワンピース。鏡の前で見つけた“誰か”。
現実にしては、あまりにも静かで、あまりにも心が澄んでいた。
「やりすぎたかな……」
そう呟いて、またいつものジーンズとTシャツを引っ張り出す。けれど、昨日の感触は簡単には抜けなかった。
肌に触れる布の“違い”。
頬に風が当たったときの“意識の位置”。
ふとした仕草が、柔らかく、慎重になっていた。
会社に向かう電車の窓に映る自分の姿を、てつは見つめた。
“あの自分”と、今の自分。何が違うんだろう。いや――“どちらが本当の自分”なんだろう。
夜、帰宅したてつは無意識にまたクローゼットを開けていた。ワンピースを手に取る指先が、今度は少しだけ震えていた。
昨日は衝動だった。
でも今日は、「確かめたい」という欲があった。
てつは再び服を着替えた。けれど今回は、口紅を引いてみた。ドラッグストアで何気なく買った薄いローズ色。
それだけで、鏡の中の「彼女」は、確かに近づいてきた。
――私、誰なんだろう。
そう思いながら、そっと自分に名前をつけたくなった。
てつでもない、彼女の名前。
そのとき、脳裏にふと浮かんだ言葉があった。
「美しい由来、って書いて、美由紀……?」
声に出すのは照れくさくて、でも鏡の中の彼女に向かって、そっと囁いた。
「美由紀、ちゃん……」
鏡の中の彼女が、また微笑んだ気がした。
それが――名前のない彼女が、“美由紀”になった瞬間だった。
次回:第三章「夜の街に、わたしはいた」
“美由紀”として初めて夜の街へ一歩を踏み出す。震える心と、初めての自由。その先で出会う人々が、彼女を変えていく。