第十章 選びとる名
鏡の中の自分が、静かにこちらを見返している。
髪を整え、まつげをなぞり、リップを引いたあとでも、そこに映る姿は、どこかまだ“仮の存在”のようだった。
(これが、美由紀――ほんとうの“わたし”?)
問いに答える者はいない。
けれど、この問いを抱えることそのものが、美由紀にとって重要な“儀式”だった。
慎との距離は、今も揺れていた。
互いに言葉を交わさずとも、傷つけてしまったという実感だけが、空気の中に残っていた。
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「名前って、不思議ね」
レナは、昼のカフェでそう言った。
夜しか知らなかった彼女が、昼の陽射しの下にいることが、新鮮だった。
「“てつ”を捨てたい? それとも、美由紀だけじゃ満たされない?」
「……どっちも、わたし。だけど、どっちにもなりきれないまま、ここまで来た」
レナは、笑わなかった。ただ、静かに言った。
「じゃあ、あなたが“名乗る”番ね。与えられた名前じゃなくて、自分で選ぶの。あなたが、あなたを呼ぶための名前を」
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その夜、美由紀はひとりでノートを開いた。
そこには、これまでの“わたし”が並んでいた。
・てつ
・美由紀
・M(レナに呼ばれたときの、仮の記号)
・彼女(慎が口にしたことのない呼び方)
・わたし
それぞれの名に、感情が宿っている。
誇り、苦しみ、羞恥、願い。
名前とは、生き方だ。
誰かに与えられたものではなく、自分で選ぶことが、人生の舵を握ること。
ノートの一番下に、美由紀は新たな文字を記した。
「美由紀」
そう。やはりそれしかなかった。
誰にも押しつけられず、誰かの理想に寄りかからず――
自分が、自分を肯定するために、必要だった名前。
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翌日、美由紀は慎に連絡を入れた。
「話したいことがあるの。今度は、逃げずに聞いてほしい」
カフェで再会したとき、慎の顔にはまだ戸惑いがあった。
けれど、美由紀の目をまっすぐ見返してくれた。
「……慎。わたし、美由紀として、生きていく。もう“てつ”じゃない」
「……そうか」
「あなたに嫌われても、理解されなくても、これは“わたしの選択”だから。後悔はしない。
でも、もし今のわたしを、どこかで受け止めてくれる気持ちがあるなら――それだけは、ちゃんと伝えておきたかった」
慎は、コーヒーを一口飲んで、短く笑った。
「難しいな、ほんとに。でも……そういう“ぶつかり方”をしてくれるなら、またちゃんと考えるよ。俺も、自分を」
「ありがとう。ほんとうに、ありがとう」
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帰り道、風が頬をなでた。
名前を選ぶことは、自分の人生を引き受けること。
それが、美由紀にとっての“生まれ直し”だった。
これからどんな人と出会うのか。
どんな自分と向き合っていくのか。
それはまだわからない。
けれど、美由紀はもう“誰かの視線”のためではなく、自分のために生きていく。
鏡の前で、もう一度呟いた。
「美由紀。わたしの、名前」
続編構想:『わたしであること ― 名前を越えて』
次の物語は、美由紀が“選んだ名”で新しい人々と出会い、愛し、傷つき、そしてさらなる自己と対峙する新章へ。
次は“自分の居場所”をつくるための挑戦が始まる――。