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作者: 福翔悦

ランドリーでの小さな失敗と罪悪感。

 ――失敗した。


 そんなことを考えながら、Aは、見た目のかさよりも数倍重い洗濯物のカゴを抱えて、坂を下ったランドリーに辿り着いた。誰もが経験することではあるが、目の前の洗濯物にこびりついた、かつて1袋分のポケットティッシュだったもの達は、日頃の疲れを沸騰前の薬缶の如く溜め込んでいるAにとって、何故か空しく乾いた涙を流したいような情動を引き出すのだった。 白い溜息を吐いたAの手には、乱雑に詰め込まれた衣類の凍てつく冷気が滲み始めていた。


 平日の通勤ラッシュに、このランドリーに来る者はAくらいだった。Aは寝ても癒えない肩腰の痛みを抱えながらも、これ以上のストレスホルモンを無用に生成するまいと、普段は乱雑に突っ込む衣類一つ一つを丁寧に叩き、白い悪魔達を振り落としてから、乾燥機に入れていった。 料金を投入し終えたAは、眼下に広がるイワシ雲を一瞥して、溜息を一つ漏らした。彼は仕方なく、左足を使ってその腹立たしいまでに白い雲たちを申し訳程度に集め、ドアの外に追いやった。


 「はぁ……寒いな。」 誰に同意を求めるわけでもなくそう零したAは、部屋着の上に羽織っていたフリースのポケットに両手を突っ込み、外に出た。家に帰ったところで何かすることがあるわけでもなかったので、ドアを出てすぐ向かいにある自販機で、束の間の「あたたかい」を求めた。 財布には100円しか入っていなかったが、その輝かしい硬貨一枚は、缶コーヒーひとつのために消えた。


 缶コーヒーに手を擦りながらランドリーに戻ると、管理人が溜息をついて愚痴をこぼしていた。「はぁ……何でかなぁ……」 Aはすぐにそれが自分の散らかした白い雲の掃き残しに向けられた溜息だと気付いたが、管理人がそれを彼の仕業だと認識しているかは定かではなかったため、Aは、無言でイヤホンを耳に詰めた。しかし何も再生しなかった。管理人の「掃除するから、ドア、開けるよ?」という言葉にも、Aは何も発さず、あたかも言葉が聞き取れていないような顔をしながら、曖昧に頷いた。


 管理人は、奥の部屋から箒と塵取りを持ち出し、慣れた手つきで床を履いた。 Aは缶コーヒーに口をつけた。 彼が思ったよりも幾分か、彼の残した白い残骸は多かった。要領の良い箒裁きにみるみると白い塊が形作られ、塵取りに食べられる。ついでに管理人は、先ほどAがドアのすぐ外に放った白い塊も丁寧に掃き、塵取りに収めた。 Aは缶コーヒーを1口飲みながら、隠れるようにして彼の眼を、箒の先からスマホの画面に動かした。


 日課なのだろうか、箒と塵取りを戻しに奥へ消えた管理人は、今度は先が筒になった掃除機を持って現れ、それぞれの乾燥機の下のトレーを開けて、フィルターの掃除をし始めた。 Aは缶コーヒーを2口飲んだ。 管理人は手際良く、トレーを引き出し、掃除機の吸口でフィルターを撫で、トレーを戻す、という一連の作業を繰り返していた。何故かAは自分の使っている乾燥機に管理人が近付くにつれ鼓動が早まるのを感じた。 Aの缶コーヒーは半分になった。無音のイヤホンは掃除機の音を余計に際立たせるようだった。 ついに、管理人がAの使用している乾燥機のトレーを引き出した。どうやら掃除のためにトレーを引き出すと一時停止するらしく、Aの衣類は勢いを失って一度ドラムの中央を跳ね、そして死んだように静止した。果たして、引き出したフィルターは白い綿だらけだった。掃除機の吸口が通る軌跡に合わせて、フィルター本来の黒い網目が露わになる。 Aはもう1口、缶コーヒーを飲んだ。 これが管理人の日課ならば、フィルターが白かろうと実質的に仕事を増やしたわけではないはずだった。しかしAは、投入前によく振り落としたはずのものがこれでもかと付着していたことへの驚きと、単に気付いていないだけなのか彼に何も言わずにフィルターを掃除する管理人への妙な罪悪感に、鼓動が早まるのを感じた。 Aはさらに缶コーヒーを飲んだ。残りは1、2口ほどになった。


 Aの使っている乾燥機が終了の音声を発したのはそれから2分後のことだった。缶コーヒーは空になっていた。 Aは無造作に、乾燥の済んだ自分の衣類をカゴに突っ込んだ。衣類に一切白い残骸がついていないことが、余計に彼の手を急がせた。彼の無音の左耳のイヤホンからは、管理人がまだ忙しそうにランドリーの掃除をしている音が聞こえる。詰め終えると、Aは、空き缶を左手に持ちながら、両手の腕でカゴを胸に抱えるようにランドリーを立ち去ろうとした。


 ――カラン、カンッ


 Aは一瞬動けなくなった。左手に掴んでいた空き缶が視界の左下に転がっている。カゴを抱えた体勢ですぐさま缶を拾うのは無理があった。 「良いよ、置いていきな、捨てとくからさ。」 戸惑うAの背中に、管理人は残酷なほど優しく語りかけた。Aはその言葉が無音のイヤホンを通り抜けて自分の胸骨のあたりまで響くのを感じた。彼はイヤホンが耳を圧迫している周辺の皮膚に、早まった脈拍のシン、シン、という重く苦しいリズムを感じた。


 Aは、管理人の声が全く聞こえていないフリをして、管理人に背中を向けたまま、体勢をやや崩しながら空き缶を拾い上げ、ランドリーを足早に去った。 乾燥機で水分が抜けたはずの衣類が、空き缶を持っているバランスの悪さなのか、不思議と来た時よりも重く感じられた。それでも、Aは、いち早くこの場を立ち去りたい一心で、普段何も考えずに登る坂を、走っていった。


 Aは遠のく管理人の存在を背中に感じながら、再び心に思った。


 ――失敗した。

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