【短編】エーファは反溺愛の狼煙を上げる
いつもお読みいただきありがとうございます!
長編化しようと思っている作品です。
初の獣人や番もの。
こんなところに来るんじゃなかった。なんなら入場だけして帰ればよかった。
エーファは急に腕をつかんできた男を殴った後にそう後悔した。そこからさらに後悔することになるとは。
同じようなことは広間のもう何か所かで起きていた。
相手を殴ったのはエーファだけだったようだが……すぐさま別室に移動させられたため大騒ぎにはならなかった。
「俺の番は元気がいい。いいパンチだった」
「私の番はおとなしい」
「僕の番はなんだか……みんなよりもドレス浮いてない? ってかドレスが合ってなくない?」
三人の男性と私を含む三人の令嬢たち。そして令嬢の家族たちが別室に集められた。
宰相が嬉しさを隠せない様子で説明を始める。
「さて、夜会でご紹介する前にこんなことになってしまいましたが、こちらのお三方はドラクロア国から我が国に番を探しにいらっしゃった方々です」
並ぶ三人は、オオカミの獣人にオシドリの鳥人、トカゲの……獣人?だそうだ。
ドラクロア国は竜人族が獣人の国や鳥人の国を併合してできた巨大な国だ。竜人も獣人も鳥人も彼らは本能で番というパートナーを求めるようにできているそうだ。
獣人といっても見た目は人間と変わらない。興奮したり、力を使ったりすると耳や尻尾、鱗や羽根が出てくるらしい。力が特別強い獣人や鳥人は通常時でも体のどこかに特徴が出ているのだとか。
「ドラクロア国で番が見つからずいろいろな国に出向いて探されていたようですが、まさか我が国で見つかるとは」
宰相が嬉しそうなのは今まで全く接点がなかった大国ドラクロアと縁ができるからだろう。
「発言をよろしいでしょうか」
令嬢とその家族以外は祝福ムードな状況を破ったのは、さきほど大人しいと言われていたセレンティア・マルティネス侯爵令嬢だ。
「ドラクロア国については不勉強で申し訳ございません。私どもには婚約者がおりますが、その婚約はどうなるのでしょうか」
「それに関してはまた国王陛下からお話があります」
エーファは嫌な予感がした。国王陛下が出てくる? どういうこと?
マルティネス様は「わかりました」と弁えた態度で一歩下がる。
先ほど広間で婚約者と一緒にいたところ、エーファはオオカミの獣人に突然腕を掴まれたのだ。「番だ」と言って。
今もオオカミの獣人は時折、エーファに熱い視線を向けてくる。見た目はワイルドな美形だが、会ったばかりの人にそんな視線を向けられるのは気持ち悪いことこの上ない。
それにエーファは今日の舞踏会で婚約者のスタンリーと踊れるのを楽しみにしていたのだ。それを奪われた形だ。
宰相が国王を呼びに行くため出て行くと、それぞれの令嬢のところに男性が歩み寄ってきた。
「ギデオン・マクミランだ。さっきは驚かせてしまい申し訳なかった。まさかずっと探していた番にここで会えるとは思っていなくて」
オオカミ獣人だという男性はにこやかに愛想よくエーファと家族に挨拶する。
エーファは挨拶なんてしたくなかったが、兄に背中を小突かれて仕方なく挨拶した。
「シュミット男爵が娘、エーファでございます」
「エーファ。いい名前だ」
殴ったことはわざと謝らない。
いちいち腹が立つ。悪い名前つける親がどこにいるんだっての。
「もしかしてマクミラン公爵家の方でしょうか?」
「そうだ。よくご存じで。私は番を見つけて帰ったら公爵家を継ぐことになっている」
三個上の兄が間を持たそうとしたのか、ギデオンと名乗ったオオカミ獣人に話しかける。
エーファは初対面で腕をつかんできたギデオンがすでに嫌いだ。第一印象最悪。腕を掴む必要がどこにあるのだ。
「番は匂いで分かる。この会場に入った瞬間、番がいることは分かった。匂いをたどると彼女だった」
「失礼な質問かもしれないのですが、間違いということはないのでしょうか?」
「それはない、と言いたいところだが他種族では以前数回あった。ただ、われらオオカミにとっては番を間違うことなどあり得ない。これまでも我が一族が番を間違えたことはない」
エーファにまた熱い視線を向けてくるが、頑張って目が合わないようにした。気持ち悪い。
どこぞのポッと出てきたオオカミにエーファと婚約者の間に入る隙間はない。
今度は家族とドラクロア国の男性たちが呼ばれて部屋から出て行き、令嬢三人だけが残される。
面識はあるもののそこまで仲良くはない令嬢たちだ。そもそもエーファは田舎の男爵令嬢なので、平民に毛が生えたようなものだ。侯爵令嬢や伯爵令嬢と話すチャンスなどほとんどない。
「まずいわ」
「え?」
マルティネス様のつぶやきに私ともう一人が反応した。
明らかに流行遅れのドレスを着ているもう一人の令嬢はミレリヤ・トレース伯爵令嬢だ。こちらは伯爵夫人が亡くなった後、一年足らずで伯爵が再婚して物議をかもしていたお家である。義母と義妹にいびられて、父親である伯爵は傍観しているんだろうなと見たらすぐに分かる格好だ。
「ドラクロア国では番は絶対。宰相様の様子から見ても私たちの現在の婚約は解消されて両国のためにと先ほどの方々と婚約させられる可能性が高いわ」
「そんな!」
悲痛な声を上げたのはエーファだけだった。
「あぁ、その可能性は高そうですね。わざわざ陛下が来て説明ともなると」
小さい声だが落ち着いてトレース様は答える。
「あなたは婚約者のことが好きではなかった口かしら?」
「義妹と浮気しているような婚約者なら必要ありません。それに国から出れるなら万々歳です」
「そう、シュミット様は……トレース様とは違うようね」
「っはい。婚約者は幼馴染で……初恋の人ですから」
エーファは思わず唇を噛む。
「私は婚約者のことは何とも思っていないの。ただ、好きな人がいるわ。でも……」
マルティネス様は言いづらそうにした。
「ドラクロア国に番として連れていかれた人間は祖国に帰ってこないそうよ。帰ってこれないというのが正しいかしら」
ドラクロア国は断崖絶壁を超えた向こうにあるため、他の国との行き来が獣人たちには簡単でも人間にとっては相当難しいそうだ。
「一度行ってしまえば逃げ出すことはできないでしょうね。里帰りなんかもできないわ……だから」
「逃げるなら今日しかないということですね。駆け落ちですか?」
「えぇ。王命で政略結婚を命じられても今夜中に逃げ出せば何とか。きっと明日か明後日にはドラクロア国に向けて出発してしまうから今夜が勝負よ。急いで連れ帰りたいとさきほどあの方に言われたから」
トレース様はやはり落ち着いていて、マルティネス様も真剣な顔だ。エーファは次々と進む話に目を白黒させていた。
「私は家から出られるならどの国でもいいと思ってたから、番でもなんでも行く。ドラクロアなら連れ戻されないからちょうどいい。三人一斉に逃げたらうちの国としてもまずいから私は残るわ」
「ありがとう……」
いつの間にか二人の令嬢は熱い握手を交わしていてエーファは置いてきぼりだ。
「あなたはどうする?」
「私は……彼に一緒に逃げてくれるか聞かないと」
「そうよね。私の場合は相手が使用人だから大丈夫だと思うけど……」
次々と進む話に体が冷えていく。頭の中では言葉がぐるぐる回るのに置いてきぼりだ。
「シュミット様、嘆いている暇はないわ。ひとまず彼らの前では従順な振りをしておいて、逃げるなら今夜よ。健闘を祈るわ」
腕をおかしな獣人に掴まれてから一時間も経っていないのに……。
もし、あのおかしな獣人に嫁げと言われたら……スタンリーは一緒に逃げてくれるだろうか。
別室に行っていた家族が国王と宰相とともに戻ってきた。獣人たちはいないのでエーファはほっとしたが、国王の発した言葉に絶望した。
「ドラクロア国とつながりができるのは大変喜ばしい。ドラクロア国の方々は番をとても大切にして溺愛していると聞く。ドラクロア国に嫁いで両国の架け橋となってほしい」
エーファは家族の顔を見たが、視線をそらされてしまった。
「君たちの現在の婚約は解消となる。慰謝料や違約金などは契約書を交わしていてもかからん。彼らが次の婚約者に困る様なら王家が手伝うと約束しよう。安心してドラクロア国に嫁ぐといい」
まだ国王は何か言っていたが、エーファの耳には入らなかった。気付いたら家族に促されて退室するところだった。前を歩いていたマルティネス様が心配そうにこちらを見ている。
エーファは疲れ切っていたが、彼女に向かって軽く頷いた。
シュミット男爵家はそこまで裕福ではないので、王都にタウンハウスは持っていない。宿に帰ったところで、父と兄からは頭を下げられた。母は顔を伏せてさめざめと泣いている。
「エーファ。頼む! ドラクロア国に嫁いでくれ!」
「……どうして?」
二人は頭を下げたまま何も言わない。
「私はスタンリーと婚約しているのに……ねぇ、どうして? なんで今日会ったばかりの、急に腕つかんでくるような獣人のところに嫁がなきゃいけないの?」
母が泣き声を上げているが、泣きたいのはエーファの方だ。
「金だ。治水工事のための金を王家が出してくれるんだ。エーファがマクミラン様に嫁ぐことによって」
苦しそうな声で答えたのは兄だった。
「うちがやっとおじい様の代の借金を返し終わったばかりなのは知ってるだろ? 災害でできた借金だ」
「もちろん……知ってる」
「借金返済でカツカツで……治水工事に回すための金はなかった。治水工事さえできれば大雨のたびにまた災害が起きるのかとビクビクしなくて済む。その金を王家が全額出してくれるんだ」
シュミット男爵家は祖父の代に起きた川の氾濫で借金があった。それをようやく返し終えたところだったのだ。
「私とスタンリーでシュミット男爵家を助けていこうって思ってたよ。お城に就職する予定だったし」
兄が男爵家を継ぐことは決まっていた。エーファは隣合った領地のオーバン子爵家の次男スタンリーと結婚して二人で魔法省の職員として来年から勤める予定だった。魔法省の職員の給料は他と比べていい。だから、ほとんどを仕送りするつもりでいたのに。スタンリーだって節約を手伝ってくれると言っていた。
「でもお前とスタンリーじゃこれほどの金は稼げない」
はっきり口にした兄の頭を父が叩く。
「エーファ……すまない。だが事実なんだ……しかも数か所におよぶ治水工事を王家がやっていいと」
「そう」
つまり、金のためにエーファはあのおかしな獣人に嫁がされるのだ。
「私はいくらで売られるの?」
「そんな言い方はやめて、エーファ」
母が泣きながら口を挟んでくるのにムッとする。
「泣きたいのは私よ、お母さま。メソメソしないでよ。私はお父様もお兄様も稼げないほどのお金を家に入れるために会ったばかりのおかしな獣人に嫁ぐんだから、自分の値段がいくらかくらい知っておくのはいいじゃないの」
八つ当たりだが、仕方がない。
父が答えた金額は確かに簡単には稼げないほどの額だった。税収に換算しても何年分だろうか。
工事にもっとかかってしまえばそれも出してくれるそうだ。
「聞くけど、お父様はそれだけのお金を王家が払ってくれると言ったらお母様をドラクロア国に差し出すわけよね? お兄様ももうすぐ式を挙げる婚約者のお姉様でも差し出すんだよね?」
エーファは言いながら涙がにじんできた。
こんなこと言いたくない。でも金のために、男爵家のために嫁げと言われているのだから。
エーファはスタンリーと子供のころから婚約している。魔法省で勤め始める前に二人で簡単な式を挙げようと言っていたのに……それが今回こんな形で台無しにされるなんて。
「エーファ。今回の治水工事は隣のオーバン子爵家にも利益があるんだ。だからスタンリーくんのところの領民にだって利益が」
「お父様、今はそんな話はしてないよ。番だと言われたらお母様を差し出すのかと聞いてるの。治水工事ができるほどのお金を王家からもらえるんなら」
エーファの睨みとキツイ言葉に父は言葉を失った。母はそんな父を見て落胆しているのが分かる。
「お兄様は? 婚約者であるエミリーお姉様を差し出すんだよね? いや、言葉が違うか。喜んで婚約解消するってことだよね?」
兄も頭を下げたまま黙っている。
「じゃなきゃ不公平よ。私だけお金のために嫁がされるなんて。お兄様は好きな人と結婚できる。もっと爵位が上なら私だって家のために嫁ぐ覚悟は持ってたよ。でも、いきなりこれ?」
「うちが好きな人と結婚できるのはしがない田舎の男爵家で、政略的に何の旨味もないからだ」
「分かってる。だから聞いてるの。というかお父様はお母様にちゃんと言ってよね。お母様が私の立場でも差し出すって。お兄様もエミリーお姉様に言ってよね。お姉様が番だって言われたら喜んで婚約解消して身を引くって言ってよね! じゃなきゃ私は納得できない!」
部屋にはエーファの声だけが響く。
「エーファ……本当にすまない……でも領民のためなんだ……」
「領民のためならお母様でもお兄様でもなく、私の幸せは踏みにじっていいってことよね」
「そうじゃない! だが、ドラクロア国の獣人たちは番を最上として大切にしてくれると」
「急に番だとか言われて、愛されるからいいだろなんて受け入れられるわけないじゃない」
エーファはため息をつく。
「同じ宿に泊まってるんだからスタンリーと話してくる」
「エーファ……頼んではいるが、エーファがドラクロア国に嫁ぐことはもう決定なんだ……だから頼む……エーファが断ったらうちは潰されてしまう……」
父の言葉を背に扉を閉めた。
スタンリーとはこの宿まで家族ぐるみで一緒にやってきた。彼の家もタウンハウスを王都に維持するお金はない。
スタンリーの家族が泊っている部屋に行くと、スタンリー以外は気を遣って二人きりにしてくれた。
「エーファ」
「スタンリー。私は絶対イヤよ。あんな獣人に嫁ぐなんて。私はあなたと結婚したいのに!」
ソファに腰掛けて手を握り合う。
誰に聞かれるか分からないとスタンリーが防音魔法をかけてくれた。エーファは攻撃系の魔法は得意だが、防音魔法が苦手なので助かる。
「分かってる。俺だってそうだよ。でも、うちも陛下から脅されたんだ」
「どういうこと?」
「正確には圧力をかけられた。税を上げられたり、他家にも圧力をかけて取引を止められたり、通行料を不当に上げられたりするかもしれない」
「そんな。せっかくオーバン子爵家の織物の取引先が増えてきたのに……」
手を握ったまま、二人とも喋らない時間が続く。
「エーファが実は番じゃなかったってことはないのか?」
「稀に間違うことはあるみたい。だから婚姻は一年の期間を置くんだって。でもオオカミの獣人は間違えたことがないって、言ってた」
明日には荷物を持って城に集合してドラクロア国に出発しないといけない。マルティネス様の言った通りだった。
「俺と他の二人の令息も集められて話があったんだ。あの二人のご令嬢の婚約者だ。獣人たちは番なんだからドラクロアに嫁ぐのは当たり前って口ぶりで……陛下や宰相も嬉しそうにしてた……」
「話をする前から決定事項みたいじゃない」
「そんな雰囲気だったよ。ドラクロアは大国で資源も多いし……つながりが欲しいのは分かるけど……トレース伯爵令嬢の婚約者は婚約解消になるって聞いて嬉しそうだったし、マルティネス侯爵令嬢の婚約者は国王が同等の婚約を見繕ってくれるならって感じで同意してた」
また二人の間に沈黙が流れる。
「俺、最初は逃げたらいいって思ったんだ……魔法が俺とエーファくらい使えれば隣国で冒険者してもいいし、他の国で就職してもいいしって。でも、それを見越したように脅しをかけてきたんだ……」
「うん……」
スタンリーが一緒に逃げることを一瞬でも考えてくれていて、エーファは泣きそうになった。嬉しかった。
「正直……家族と小さい頃から知ってる領民のみんなが不幸になるかもしれないのに逃げれるかなって……今、すっげぇ悩んでる……でも、エーファと結婚できないのは嫌だ」
「うん。私だってあんな人のお嫁さんになりたくないよ……お金のために嫁ぎたくない……スタンリーと結婚したいよ……」
エーファの涙をスタンリーの大きな手が拭う。しばらく泣いて泣いて泣いて……エーファは覚悟を決めた。
「ねぇ……一年待っていてくれる?」
「どういうこと?」
「私がドラクロアに向かえばお金は支払われると思うの。だから、そこから婚姻までにもこっちに戻ってくれば……」
「ドラクロアからか? そんなこと……できるのか?」
「やる……そうじゃないと、スタンリーと祝福されて結婚できない……」
エーファは言いながらまた涙があふれてきた。
つい数時間前までスタンリーと結婚できる未来を疑ったことなどなかった。あんな奴に番認定されただけで……エーファの人生はすべて壊された。
「絶対許さない。何とかして、この国に戻ってくるから……その時まで待っててくれる?」
顔を上げると、スタンリーも泣くのを堪えている顔をしていた。
翌朝、エーファは家族とは一言も喋らずに城へ向かった。一睡もできなかった。
「結局来たんだ?」
「はい。不本意ですがお金もちらつかされました。吹けば飛ぶような男爵家なので」
「そっかぁ」
先に到着していたトレース様に悲壮感はない。むしろ清々しい表情だ。今日はさすがに流行遅れのドレスではなく、質のいいワンピースを着ている。
服への視線に気づいたのか、トレース様は笑った。
「今朝、カナン様。あのオシドリの鳥人の方がうちに来て、取り上げられていたお母様の形見の装飾品とかを全部奪い返してくれたんだ」
「え?」
「このワンピース。本当は義妹のなんだけど。カナン様が『僕の番にみすぼらしい格好をさせるなんて馬鹿にしてるのか?』って凄んでくれて。何枚か服を強奪してくれたのよ」
「そ、そうなんですか」
トレース伯爵家でミレリヤ様は相当いびられていたようだ。
「よ、良かったですね?」
「うん、それはほんと良かった。感謝してる。流行遅れのドレスは全部お母様やおばあ様のだったけど、それは荷物になるからお別れしてきた」
「そうだったんですね……」
エーファはしんみりした。トレース様にとっては昨日の番事件があって良かったのだろう。
マルティネス様が来ないうちに時間がきて、集合場所から侍従に促されてドラクロア国に向かうための馬車まで歩く。彼女は駆け落ちできたのだろうか。
「マルティネス様?」
馬車まで近づくにつれて誰かがいるのが見えた。車イスに乗っているようだ。
さらに近づいてやっと分かった。車イスに座っているのはマルティネス様だが、呼びかけてもどこかを見たままぼんやりしている。そして片足にはギブスが巻かれている。
「お怪我を? だれか治癒魔法が使えたかと……」
「その必要はない」
エーファにかぶせるように発言したのはトカゲの獣人である。というか獣人のくくりでいいのだろうか。もうトカゲ族にしよう。
「他のオスと逃げようとしていたからね。少し痛い目を見てもらった」
トカゲ族は満足げにマルティネス様を後ろから抱きしめる。彼女は嫌がる素振りもなく、分かっているのかも怪しいが反応もせずにぼんやり虚空を見つめていた。
駆け落ちが失敗したということだろうか。
「どういう、ことですか?」
「昨夜遅くに彼女が自身の従者であるオスと逃げようと屋敷を出たところを見つけてね。我々の番への執着を分かっていないようだったから分かってもらった」
「マルティネス様のお怪我は……」
「分かってもらった、と言っただろう?」
トカゲ族はすうっと切れ長の細めの目をさらに細める。まさか――
「お相手の方は捕らえられたんですか?」
「君は何を寝ぼけたことを言ってるんだい。そんな生ぬるいことをするわけないだろう」
トカゲ族はマルティネス様を大切そうに抱きかかえて馬車に乗せた。
「心細いだろうから三人でこの馬車に乗ってもらう」
オオカミ獣人のギデオンがエーファに後ろから声をかけた。
「分かりました」
ギデオンは手を伸ばしてきて、エーファの髪をなんの許可もなく熱い視線と共に触る。
「ドラクロア国までは長いが、番に不自由はさせない」
もうすでに不自由だ。エーファはそう思ったが唇を噛んで耐えた。頬をするっと撫でられてさすがに一歩引いてしまった。
「私たちはこういう身体的接触に慣れてないんです」
「あぁ、照れているのか」
トレース様がフォローしてくれた。気持ち悪くてうつむいたまま馬車に乗り込む。彼らは馬に乗って馬車に並走するらしい。まるで逃げられないように監視されているようだ。
「マルティネス様の従者は殺されたんだって」
馬車に乗ってからトレース様がカナン様から聞き出した情報を教えてくれる。マルティネス様はギブスを巻いた片足を上げて座り、ぼーっと窓の外を眺めて反応しない。
「従者は彼女の目の前で殺されたって……それに逃げられないように彼女を骨折させたって。今多分彼女はショック状態よ」
エーファはあまりの残酷さに頭に一瞬で血が上った。
「危ないわよ、抑えて」
立ち上がろうとするエーファをトレース様が制してくる。
「あのトカゲはマルティネス様を監視してたってことですか?」
「しっ、聞こえるわよ。というかそうなるわね。カナン様も私が今朝ぶたれそうになった時に現れたもの」
エーファは息を呑んだ。
もしかして私も監視されていて昨夜のスタンリーとの会話も聞かれていた? いや、防音魔法をかけていたから大丈夫だ。
「番を溺愛と聞いていたけど、執着に近いわね。私もちょっと認識が甘かったわ」
「……はい……」
エーファはぎゅっと膝の上で拳を握りしめる。
マルティネス様が窓の外を見ながら歌を口ずさみ始めた。その目はどこも見ていないようで……でも彼女は泣いていた。
この世に絶対なんてないと思ってた。自分の中に殺意があるなんて知らなかった。
私は絶対にあのオオカミ獣人を許さない。私からスタンリーとの未来を奪ったあの男を。
窓の外に視線を向けると、ギデオンと目が合った。周囲を警戒するような彼の鋭い目は一瞬で熱い視線に変わったが、エーファはさっと馬車のカーテンを閉めた。
腕を掴まれた瞬間から私の心のシャッターは閉まったのだ。いくら愛している人に向けるような熱い視線を私に向けようと、絶対にあいつを許さない。
私は必ず、この国に戻って来てみせる。