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08.帰

この日初めてテュールお兄様の本気で怒った顔を見た。

いつもは家族の中で一番騒がしいのに、無表情になって何も喋らず剣に手を伸ばす。

殺気で私まで息苦しくなって逃げ出したいのに、ベッドで横になっている未来の旦那様が手を握って離してくれない。


「お兄さま…お願いですから私の前では……。いえ、私の前以外でも…どうか…っ!」

「目を瞑ってろ」

「お名前を伺っても宜しいでしょうか?」

「いやあの…大公殿下…。今はそういう空気では…」


逃げたい逃げたい逃げ出したい!

本では戦場で死ぬことになっているのに、今ここで巻き込まれて死にそうなのですが!

怒っているとは言え、まだ理性が残っているお兄様は剣を抜いていつでも斬れる準備を整える。

並大抵の騎士ならその殺気に戦意喪失しているだろうに、殿下はお兄様の存在に気づいていないのか、分かった上で無視して私だけしか見ていない、見えていない。


「あのっ!」


私も幼い頃より鍛錬してきた見だからお兄様の殺気を感じ取ることはできる。

それが怖くて…。それに本の中の私は「殺される役目」だ。

もしここでお兄様が大公殿下に斬りかかったら?きっと彼は黙って斬られるような人ではない。

お兄様がやられる。もしくは大公殿下に斬りかかった罰として……。


「おにいさま…」

「ッ悪い!」


今度は私の手が震え始め、顔から血の気が引いていく。

そんな私の様子を見たお兄様は慌てて剣を収め、無理やり手を離してから抱き抱える。

気持ち悪い…。怖い、死にたくない!やっぱり10歳のあの頃にさっさと婚約破棄しておくべきだった…!


「どこか別の休める部屋を頼む!」

「ご、ご案内しまぁす!」


レイの案内で部屋から出る瞬間。起き上がって悲しそうな顔をした大公殿下と目が合い、自分の待ち受ける未来とともにすぐに目を逸らしてしまった。







「お前がいる前で悪いことをした…。大丈夫か?」

「大丈夫です。私もまだまだ未熟ですね…」

「まだ14歳なんだから当たり前だろ!」


レイは私が普段使わせてもらっている部屋に案内してくれた。

お兄様は私をベッドにおろし、優しく頭を撫でて何度も謝り続ける。

その間にレイが血で汚れた私の手を拭いてくれて、温かい紅茶を出してくれた。

少しの間何も喋らず心を落ち着かせていると、お兄様が珍しく気まずそうな顔で私を見ている。


「もう大丈夫です」

「悪い…」

「大丈夫ですって」

「とにかくもう少し休んだら帰るぞ。家族も心配して―――誰だ」


折角気持ちが落ち着いたかと思ったのに、また緊迫した空気が流れる。

お兄様はドアを睨みつけ再び剣に手を伸ばすもチラリと私を見て抜くのを止める。


「先程は大変失礼致しました。お礼を言いに来たのですが体調は大丈夫でしょうか?」


初めての大公殿下の声を聞いたけど、とても聞き取りやすい低音だった。

自分の体調も悪いのにわざわざ来て頂くなんて…。

なんて答えたらいいのか解らずお兄様を見上げると、黙って頷いて部屋から出て行ってしまった。

ああ…どうか斬り合うなんてことしませんように…!

また震える手を握り、どうか平穏に何事もなく帰れることを強く願った。







「初めまして、タナトス大公アレス・セヴァイス・ルードラ様。彼女の兄であるテュール・アティルナと申します」

「ご挨拶が遅れて申し訳御座いません、アティルナ卿。是非また改めてご挨拶させて頂きますが、彼女の体調は大丈夫でしょうか?」

「妹は体調が悪いようなのですぐに連れて帰ります」

「そうですか。折角婚約者に会えたというのに残念です」

「(はぁ?)殿下は婚約者がいることを覚えていたのですね、知れて安心しました」

「…申し訳ありません。多忙のあまり気を使うこともできず、あのように体調が優れないことも多かったので、繊細なご令嬢にはご迷惑かと思い一方的に避けておりました」

「ええ。御覧の通り妹は繊細でまだ幼い。軍神とも呼ばれる貴方には相応しく御座いませんので、明日にでもすぐに婚約破棄の書類を送らせて頂き、陛下にも進言するつもりです」

「それはご勘弁願いたい。婚約した際頂いた肖像画を見てから彼女に一目惚れしてしまったので」

「(はぁああああ!?)だから手紙の返事も、殿下の成人式にも同伴できなかった…なんて軍神の口から純粋な少年のような言葉が出てくる訳ありませんよね?」

「お恥ずかしいですがその通りです。幼い頃より兄上……いえ皇帝陛下の命令で戦場で暮らしていた為、どうしたらいいかずっと悩んでいました。ただ頂いたものは全て大事に保管しております」

「ッだったら「あの、お兄さま…?」


願っていても解決することはないだろうから扉に耳をつけて、二人の会話を盗み聞きしていたけど、やっぱりダメそうだった。

とにかく今日はもう帰ろう。

昨日の濡れた服のままだから汚れているし、あんな態度で寝てしまったから身体も頭も痛い…。


「今日はもう帰りましょう」

「ああ、そうだな。それがいい、すぐに帰るぞ」

「えッ!? あの、シルフレイヤ嬢。体調が優れないのであればこちらでお休みして頂いても構いませんよ」

「いえ、連絡したとは言え外泊してしまったので一度帰り、両親に説明しなければいけません」

「誰かのせいでな」

「では私もご一緒しても構いませんか?」

「それは……」

「いくら戦場にいたからと言っても連絡もなく、しかも急用でもないのにいきなり訪問するのはマナー違反であることをお忘れですか?」

「大公殿下。改めてこちらからご連絡致します」

「………。…はい、お待ちしております。次お会いした際は今までのご無礼も合わせてお詫び致します」

「気にしないで下さい。体調が優れたようで安心しました。体調が悪化するといけないのでお見送りは大丈夫です」

「では失礼致します。シル、行くぞ」


二人揃って深く頭を下げ、レイが私の荷物を持って玄関まで送ってくれる。

最後に振り返るとまた切ない顔で私を見つめていた。私のことどう思ってるの…?興味がなくて無視してたと思ってたのにあの言葉は本気?


「いいか、絶対に婚約破棄するぞ。あんな胡散臭い奴見たことねぇ」

「飄々とされていましたね」

「おまえはまだ子供だからわかんねぇだろうが、あいつの腹は真っ黒だ。絶対に油断するな、常に警戒しろ!」

「さっきはそんな風に感じませんでしたよ?」

「あいつお前のことしか見てなかった。今まで放置してたのになんだあの態度…」


私には感じられなかった何かを感じたのだろうか、ブツブツと独り言を呟いている。

さっきまで怒っていたのに今は焦っているように見えるのは気のせい?

何か声をかけたほうがいいんだろうけど、先にお兄様が乗って来た馬車に乗り込み、レイにお別れの挨拶を告げる。

馬車はすぐに動き出し、ようやく全身から力が抜けた。


「お兄様。今度はお兄様のほうが顔色悪いですよ」

「あんな胡散臭い言葉を聞いたら俺じゃなくても顔色が悪くなるわ! とにかく兄さんと父さんに相談だ!」

「我が家では興奮しすぎて剣を抜かないで下さいね…」

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