猫を助けたらちょっと刺激的な恩返しをされました
高校の帰り道、いつもの古本屋であの子を見つけた。
入り口近くの木の本棚から、古ぼけた文庫本を取り出しては、何冊か選んでいる様子だった。
彼女は、同じクラスの葉月さん。
ふんわりとした黒髪をふたつに分けて、飾り気のない焦茶色のヘアゴムでしばっているだけのシンプルさ。
細い黒のフレームのメガネが、左目元にあるホクロを目立たないものにさせている。
そう。
まさに文学少女というべき姿の女の子。
その見た目通りに内気で、同じクラスになってから話したのは一回だけ。
それも廊下ですれ違う時に、他の生徒が走り回っているのに巻き込まれてぶつかったという、うっすい関わり。
ぶつかった男子生徒が、大声で謝りながら走り去った後、僕は足元に落ちた本を拾い、葉月さんに渡した。
「………ご、ごめん。あの、本、落としたよ」
「あ、ありがと、う、ございます」
ぺこぺこと頭を下げて、目を合わせる事なく離れていった。
その時、葉月さんが落とした本が、昨日まで僕が読んでいた本だったから、同じ本の好みなのかもって初めて意識するようになった。
それから、半年。
気づけば目が追いかけているけど、全然接点がないまま今日に至る。
古本屋に通っているとわかっても、声をかける勇気は、無い。
このままだと見ているだけで終わってしまう。
それでも、このふわふわとした気持ちを失くしてしまうよりは、いい。
どうせこんな見た目もよくない、陰々滅々とした僕が、告白しても気持ち悪がられて終わるだけだ。
それなら、このまま片想いでいい。
僕はいつも通りの結論を出すと、古本屋に寄ることもなく、家に帰ることにした。
いつも通りの帰り道。
雑木林のそばを通って、古い祠を通り過ぎて、あと三百メートルで自宅に着くという所で。
僕は、今、竹箒を持ってカラスと戦っている。
「あーー!!」
「うるせえぇ、離れろー!!」
祠の影にあった掃除用の竹箒をぶんぶん振り回して、カラスを追い払う。
「ふん、他愛もない」
はあはあと息を乱しながらも、一応格好をつけてみる。
ただ単に、我に返ってちょっと恥ずかしくなっただけなんだけど。
雑木林の方にカラスは飛んで行き、そのまま戻ってくることはなかった。
僕は、足元にいる猫に優しく話しかけた。
「……怖かったろ?カラスは追い払ったから、大丈夫だよ」
にゃあん、と黒い頭に白い体のハチワレ猫が鳴いた。
猫の前にしゃがみこんで、ゆっくりと頭を撫でてやる。
ふーっ、ふーっ、と息が荒いのは、さっきまでカラスに襲われていたからだ。
何があったのかはわからない。
でも、猫が好きな僕としては、耳を伏せて、怒りも露わにカラスに向かって威嚇しているハチワレ猫の味方になることにした。
車も通らない道で、カラスと猫が戦っていて通れなかったというのが一番の理由だけど。
撫でてから気づいたけれど、このハチワレ猫、葉月さんに似てるな。
真ん中で分かれた前髪みたいなハチワレ模様に、左目元にある黒いブチ。
本当に葉月さんみたいだ。
思わず、ふふっと、笑ってしまう。
「よしよし、怖かったなぁ。
もう大丈夫だからな」
なでなでと、ハチワレ猫の頭を愛でる。
すると、猫も興奮状態から一転して、体を撫でられ気持ちよくなったのか、頭をすりすりと僕の手のひらに擦り付けてくる。
僕はもっと撫でてやろうと、頬のあたりのふかふかした毛並みのところを撫でてやる。
ごろごろと喉を鳴らし、顔をすりつけると、今度は顎を上に向けた。
「どれどれ、今度はここか?」
僕は猫の奴隷になったように、差し出された顎の下を丁寧に撫でてやる。
そのまま、頬やら額やら顎の下を求められるままに撫で続けた。
「うにゃあぁ…」
猫はゴロゴロと喉を鳴らし、感極まったかのように頬を撫でていた僕の指を甘噛みすると、そのままかじかじと口の中へ入れた。
「ひいっ、猫の舌はざらざらしていて、っくぅ、うぅ…」
ちょっと右腕に鳥肌が立ったけど、我慢。
猫は何が気に入ったのか、そのまま背中をアスファルトにこすりつけてゴロゴロと喉を鳴らすと、僕の指を甘噛みしたまま、前脚で抱えるようにした。
右腕にてしてしと、後ろ脚でキックされる。
あ、これ、子猫とかがお母さん猫にやるやつだ。
この子、まだ小さいのかな?
でも、成猫だよなぁ。
不思議に思いながら、ハチワレ猫を左手で撫でていると、しっぽがふわりと二本出ていた。
「え?!」
僕がびっくりして声をあげると、ハチワレ猫は、さっと指を離して、体を起こすと雑木林とは反対の方へ、走り去ってしまった。
残されたのは、べたべたになった右手の指。
「……しっぽ二本って、見間違ったのか、な?」
ざざざっと、雑木林が揺れた。
その夜、僕はなんとなく体がだるくて、早めにお風呂に入って、さっさと寝ることにした。
「……何か、体だるい。風邪かなぁ。猫に何かうつされたのかなぁ…」
階下からはテレビを見ながら笑う家族の声が聞こえてくる。
「熱、はないけど。なんだかなぁ…」
少し心細さが生まれた僕は、よせばいいのに文化祭で撮ったクラス写真の画像をスマホで拡大して見た。
画面の左側の後列に並ぶ、葉月さん。
真顔のまま、写っている。
「笑う顔、僕に向けて欲しいなぁ…」
直接話すことはなかったけど、友だちと話す声がお互いに聞こえる距離に席がある。
なんとなく、葉月さんの好みは、僕と似ている。
読んでいる本とか、好きな漫画とか、好きな音楽とか。
時々、夢中になって話しているのを見ると、「僕もそれ、好きなんだ」と、会話に混ざってしまいたい衝動に駆られる。
でも、声が裏返ったり、どもったりすることが恥ずかしくて、僕はいつも言葉を飲み込んでしまう。
それを見ている僕の友だちは、いつももどかしい顔をしては、肩をぶつけてくる。
「話せばいいだろ、絶対お前と話合うだろ」
「……だ、だって、急に話しかけられた引くだろ」
「いやいや、絶対向こうも気づいてるって」
「俺もそう思う。なんでもいいから話かけろよ」
「……い、いいよ」
毎回そんなことを繰り返している。
そんなに世話焼きな奴らじゃないのに。
ていうか、バレバレなのが僕は恥ずかしくて、なおさら葉月さんに声をかけられない。
それでも、女友だちと話して笑っている葉月さんをこっそり見られる今の環境を壊したくない。
「どうせ、僕なんか、好かれるわけないし……」
葉月さんの顔を拡大したままのスマホを握りしめて、僕はそのまま眠りに落ちた。
夢の中だ。
僕はすぐに理解した。
これは、夢だ。
だって、僕がベットの上で、よれよれのスウェット姿で、同じベットの上に葉月さんがいるから!
「にゃあん」
制服姿の葉月さんが、プリーツスカートを乱して、僕の方に近付いてくる。
「え、な、なんで、葉月さんが!」
動揺しながらも、葉月さんから距離をとって、壁に背中を貼り付けた。
ごんっと、頭を壁にぶつける。
すると、耳元というよりも、耳の中で声が響いた。
『さっきは、カラスから助けてくれて助かった。礼を申す』
「え?!」
キョロキョロと部屋の中を見回すが、葉月さん以外、誰もいない。
でも、この声は葉月さんではない。
断じて違う。
『この体の形は、借り物だからのぅ。声は猫の物真似しか出てこん』
「え、葉月さんの体、なの?」
『形を真似ただけじゃ。わしは夕方にヌシに助けられた猫じゃ』
「猫?ハチワレの美猫?!」
コロコロと鈴を転がしたような、人ではないものの笑い声が聞こえた。
『猫は猫でも、猫又じゃ。ヌシには見えたじゃろう?』
「あ!見間違いじゃなかったの?!」
『ちょっと礼をしようと、ヌシの体の状態を見るのに力を使ったから、つい、な』
「えええ!ぼ、僕の体に何かしたんですか?!」
虚な目をした葉月さんに、視線を合わせて僕は叫んだ。
『気持ちよく撫でてもらった礼じゃ。
だがのう、ヌシはかなりの恋情を拗らせておるの。体によくないぞ』
「な、な、何を言って」
『この体のおなごを好いておるだろう?素直に気持ちを出せばいいものを。人間なぞ、感情でできているのに小難しく考えおって』
「う、うるさいうるさい!童貞の初恋を舐めるな!」
『うむ。舐めてわかったが、だいぶ宜しくない。このまま溜め込むのは体にも害が出る。そこで、礼にわしが発散させてやろう』
ええええ?!
発散?!
その、葉月さんの体で、僕の溜め込んだものを、発散?!
いやいやいやいや!
形だけ借りたっていっても、その体が問題で!
僕は、そんな!
葉月さんの体で、発散なんて!
はくはくと、口を開ける僕を見て、虚な目の葉月さんが、ばかにしたように笑った。
『おい、童貞初恋野郎。ヌシが何を考えているかわかるぞ。馬鹿め。そんなことするわけがないじゃろう。
形はこの娘だが、中身はわしじゃ。夕方にしてもらってことを返しとしてもう一度するだけじゃ』
「え、あ、へー……。なんだ。それじゃ撫で」
え?
撫でるの?
この姿の状態で?
『触れるところが多い方が早いからの。何かいい形が分かればと思っておったが、それ、ヌシがじーっと見ておったからの。真似させてもらった』
僕のマヌケー!!
葉月さんの顔を見ながら眠りたいとか、気持ち悪いこと考えたからこんなことにー!!
『さ、はじめるぞ』
虚な目のまま、葉月さんは口元だけでにっこりと笑った。
あとは、猫又のなすがままだった。
気づけば僕は右手を伸ばし、葉月さんの頭を撫でていた。
それから、葉月さんのすべすべの頬をゆっくりと撫でていた。
黒縁のメガネがあたり、不快げに眉を寄せた葉月さんは、メガネを外すと、両手で僕の手をとって、頬に当てた。
すりすりと、僕の手に頬を当てる。
もうこの段階で僕の心臓は、壊れしまったように鼓動を早くしていた。
いつも見ていた葉月さんが、偽物だとわかっていても、触れているだけで、もう。
しばらくすると、顎を上げて、細い首筋を僕にさらした。
その顎から首にかけて、僕の右手が操られたように、するすると動いて優しく撫でる。
すべすべの肌に、柔らかい匂い。
ふんふんと、鼻息を荒くする葉月さん。
中身は猫だ。
しかも化け猫の猫又だ!
僕はそう何度も自分に言い聞かせたが、だめだった。
どんどん体に血が巡る。
何度も何度も、頬と額と顎を撫でる。
視界まで真っ赤に染まりそうなほど、僕は羞恥心に悶えながら、頬をまた、撫でた。
すると。
葉月さんが、僕の指を口に咥えた。
「……くっ」
僕は思わず声を出す。
猫の舌と違う、ただただ柔らかいだけの女の子の舌の感触。
僕は顔を歪めながら、右の指を口に入れられたまま、左手で頬を撫でる。
左の目元にある葉月さんのホクロを、僕の親指がそっと撫でている。
猫なら!
夕方のハチワレ猫なら!
なんでもなかったのに!
葉月さんに、僕は、何を、している?!
正確に言えば、猫又に操られているだけなのだが、そんなことは頭の中から飛んでいた。
すると。
虚な目の葉月さんが、急に焦点を合わせたように、目を大きくさせた。
そして。
僕の指を噛んだまま、そのままベットに仰向けに倒れ込んだ。
ふたつに縛った髪を乱しながら、頭をベットのシーツに擦り付けて、スカートが乱れるのも気にせずに、体をよじった。
だから、猫だったら、なんでもないのに!!
僕は何度目かの心の叫びを繰り返した。
頬を染めて、ベットに横たわる葉月さん。
とんでもないものを見ている気がする。
僕はまだ口に咥えられたままの右手の指が、するり、と舐められて、「ひっ」と声を漏らした瞬間。
意識を失った。
目を覚ますと、朝だった。
ぼんやりしたまま、カーテンを開けると、そこにはカラス。
「あー」
馬鹿にしたように鳴くと、窓ガラスをかかかっとくちばしで叩いた。
ぼーっとしたまま、窓を開けると、
『言い忘れていた。最近はこんぷらいあんすとか、しょうぞうけん、となんたらあるらしくてな。
ゆうべの形を借りた娘には事後承諾になったが、夢としてヌシにしたことを見せておいた。
体は軽くなっておろう?それが礼じゃ。ありがたく受け取れ。
なお、これはただの伝言としてカラスに使いをさせておる。
この伝言が終わればただのカラスに戻る。逃げるがよい』
え?
「あー!あー!」
「痛い痛い痛い!」
がっすがっすと、羽ばたきながらカラスが蹴り付けてきた!
僕は慌てて窓ガラスを閉めると、鍵まで閉めた。
はー、はー、と息を乱しながらもベットから降りると。
体が軽い。
なんだろう。
何かずっと溜め込んでいた疲れが取れたような。
「……気持ちを溜め込むって、体によくないんだな」
ぐるぐると肩を回したり、軽く足踏みをしたりしてみた。
うん。
やっぱり軽い。
これが猫又のお礼なら、ありがたく受け取っておこう。
むんっと、両手を天井に伸ばして背を伸ばして、思い出した。
「事後承諾として、夢を葉月さんに見せた……?」
僕は顔を真っ赤にした後、真っ青になった。
え、あれを?
昨夜のあれを、葉月さんが夢で見たの?
いや、きっと、夢だと思って、そのまま忘れている。
うん、そうに違いない。
僕はそのまま有耶無耶にして、学校に行くことにした。
そして。
僕が後ろの扉から教室に入った途端、葉月さんが顔を真っ赤にして、黒板近くの扉から走って教室から出て行った。
体が軽くなっていた僕は、そのまま葉月さんを追いかけて、走り出した。
出てきたばかりの教室からは、どっと沸いた声が聞こえたが、僕は気にすることなく廊下を走り続けた。
走る体は、軽かった。
スカートをひるがえして、階段に向かう葉月さん。
追いかける俺の目の前で、校則に合った白の靴下を履いたシューズが階段を上がっていく。
もう少し。
あと、もう少し。
階段を一段飛ばしで駆け上がる。
物置と化している屋上への扉の前で、葉月さんの腕を捕まえる。
柔らかい、腕。
真っ赤な顔で、俺を振り返ってすぐ、壁に顔を向ける。
メガネの奥の目は、昨夜見た偽物の葉月さんと違って、赤く縁取られて、濡れていた。
本物の葉月さんだ。
俺は急に目の前にいる葉月さんが、たまらなく愛おしく思えた。
俺は葉月さんの姿が好きだけど、その中身が葉月さんだから、恋をしたんだ。
急激な理解と、抑えきれない恋情が、俺の体を乗っ取った。
葉月さんの腕を引っ張り、屋上につながる扉に押しつけた。
そして、葉月さんの両肩の上に手を伸ばし、葉月さんを俺の体で閉じ込めた。
「…………っ!」
さらに真っ赤になって、俺を一瞬見上げると、何かを言おうとして、葉月さんが息を漏らした。
俺は、早鐘を打つ心臓に気づかないふりをして、できるだけ冷静に言葉を選んで、声を出した。
「急にごめん。
でも、葉月さんが好きなんだ」
猫又がどうとか、そんな説明をできる余裕は無かった。
ただ、ただ愛おしい。
昨夜の猫又が化けた偽物の葉月さんに、俺は翻弄されたけれど。
あんな風に猫みたいなことをする葉月さんは、やっぱり俺の好きになった葉月さんではなくて。
今、目の前にいるメガネをかけた2つ結びのどこにでもいるような校則を守った格好で、妖艶さも何もない真っ赤な顔であわてふためく葉月さんが。
「俺は好きだ」
昨夜の猫又の話を説明すべきだと、頭の片隅にあった理屈や体面を重んじる昨日までの俺は、告白をした瞬間に消えていた。
葉月さんが好きだ。
我慢をして、その気持ちを押さえつけていた理由が、もう見つからなくなっていた。
ただ、感情があふれるままに、葉月さんに言葉を伝えていた。
葉月さんは、びっくりしたように、潤んだ目を大きくさせて、俺を見つめ返した。
メガネと、その奥にある葉月さんの目に、真っ赤な顔で真剣に見つめる俺の顔が写っていた。
ああ、みっともないな。
全然、かっこよくない。
妙に冷静に判断する俺がいた。
それでも、葉月さんに俺の気持ちが伝わるなら。
そんなこと、どうでもいい。
「葉月さん、好きです。付き合ってください」
黙ったままの葉月さんに、俺は重ねて言った。
ちゃんと伝わるように。
真っ赤な顔で、泣きそうな顔で、葉月さんは俺の顔を黙って見つめる。
永遠のように思えた数秒間。
葉月さんの声が、その沈黙を破った。
「……わたしも、ずっと前から、好きでした。
彼女に、して、ください」
少し震えた声ながらも、はっきりと葉月さんは答えた。
俺は答えることもできず、ただこの気持ちを伝えるべく、葉月さんを力強く抱きしめた。
本物の葉月さんは、柔らかくて、とてもいい匂いがした。
その後、1時間目の授業をさぼり、休み時間になってから教室に戻った。
クラスメイトからは冷やかしに満ちた声で祝福された。
どうやら、両片想いで、お互いに意識し合っているのをクラスメイト全員が知っていたようだった。
僕と葉月さんは、その日一日中真っ赤になったり、教室からそれぞれ逃げ出したりと、色々と忙しく過ごした。
その週末に、葉月さんと古本屋へデートに行くと、ハチワレ猫の絵が描かれた栞を店主から貰った。
どこまでが猫又のお礼だったのか、僕は知らない。