第十九話「化かされた狐」
稲荷が名を呼ぶと、揖宿は浮かべていた不気味な笑みを深くした。
「やっぱり、揖宿さんが……」
「東雲も気付いたのか」稲荷が言った。
「昨日、左京から右京の過去話を聞いたから……。最初は、稲荷山を追い出された青鈍って狐なのかとも思ったけど……」
東雲がそう言うと、揖宿はドロンと化けの皮が剥がれる音を立てて薄氷の姿へと戻った。
「やめてぇや、東雲くん。あんな奴らと一緒にされるんは心外やわぁ」
氷のように淡い水色の髪に、血の様に赤黒い瞳――青磁色の高級感ある衣を纏い、太腿までの藤色をした四幅袴からは細くて陶器のような白く長い足が見えている。揖宿に化けていた頃以上に中性的な容姿をした薄氷は、白けた表情で東雲を見た。
「暫く見ぬうちに、随分と口調が酒呑童子に似たようじゃが……何やら、深い付き合いでもしておるのかの?」
「――ふっ。……さぁ? どうだろうね」
稲荷が問うと、薄氷の口調は先程までの揖宿とは違い、京都訛りがすっかり無くなっていた。
「じ、じゃあ、本物の揖宿さんは……⁉ 俺が大学の頃から一緒に働いて来た揖宿さんも、ずっとあなたが化けていたってことですか⁉」
「そうだよ? この体は、昔僕が乗っ取った男のものだからね。……どう? 人間じゃ全く見抜けないくらい、上手に化けられてたでしょ?」
「そんな……」
これまで職場仲間として共に過ごしてきた揖宿は、初めから存在していなかった。――その事実に、ショックを隠し切れない。
感情が追い付かない東雲を庇うように、稲荷と左京は互いの距離を詰めて薄氷を睨みつけた。
「……薄氷よ。これ以上東雲を傷付けるなら、わたし達が黙っておらぬぞ」
「観念するんだな」
「ふん! でももう、呪詛の膜は完全に覆ってしまったよ。幼くなった稲荷大神、そして左京……いくらお前達でも、この怨念渦巻く穢れの前ではいつも通りの力だって出せないだろ」
薄氷は笑ったが、対する左京も何かしらの策があるのか、口角を上げた。
「それはどうかな」
「何?」
「稲荷様には俺だけじゃなく、戦向きの右腕がついてるんだ。薄氷、お前がよく知っているアイツだよ」
「……はぁ? 左京、お前……自分が何を言っているのか分かってるの? 其処の稲荷大神は今、蘇芳と喧嘩してるんだろ。そんな状態で、アイツが助けに来るわけがない」
僕と揉めた時ですら会いに来なかったんだから。――そう悪態を吐き、薄氷は眉間の皺を深くした。
神と狐達のやり取りを黙って聞いていた東雲だったが、稲荷と左京がやって来たことで、浄化や加護の力も働いたのだろう。少しではあったが、症状が軽くなっていることにも気付いていた。……とはいえ、覆われた呪詛の穢れは強く、全快出来たわけではない。
それでも。――東雲は、薄氷の右京に対する発言に納得がいかず、今も襲ってくる吐き気に耐えながらも口を開いた。
「右京は……稲荷のことを凄く大切に思っています。だから、主を見捨てたりなんてしませんよ」
「……」
東雲の言葉に、思うところがあったのだろう。稲荷は自身の衣服を握り、目を伏せた。
「はぁ〜……あのさぁ。僕は、『蘇芳』の話をしているの。『右京』なんて名前は認めてないの」
分かる?――そう言って、薄氷は文句を垂れた。
「……ま、平成っ子の東雲くんは知らないのも当然だよね。元先輩・後輩の誼で教えておいてあげる。蘇芳はね、とんでもないはぐれ者だったんだよ。昔なんて、今の比じゃないくらい凄く好戦的だったし、本気で人間を嫌ってた。だからこそ、僕と一緒に沢山の人間を貶めて来たんだから。――なのに、何処ぞの神様と優等生狐に唆されたお陰で、今じゃただの良い子ちゃんだよ」
そう言うと、薄氷は稲荷達を睨みつけながら続けた。
「野狐から神仏に降らず妖狐となって、僕と一緒に生きていれば……『妖力』を最大値にまで高めることだって、蘇芳なら出来た筈なんだ。『神通力』なんていう、神の許可なくば使えないような縛られた力なんかより……ずっと自由で、恐ろしい力を手に入れられた筈なのに」
そう言って昔を懐かしむように過去の蘇芳に思いを馳せている薄氷を見ていると、東雲は一瞬こそ『彼が過去に囚われているように、今――稲荷と喧嘩をして孤立している右京も、同じ気持ちになっているのではないか』と不安になった。しかし即座に、ゴールデンウィーク初日の風呂場にて、右京が紫苑や結のことを大切に思っているからこそ自分に怒りを向けて来たことも思い出した。
(言葉や態度こそ荒くて不器用ではあるけど……右京はいつだって、自分よりも周囲のために動く狐だったじゃないか)
東雲は首を左右に振って考えを改め、薄氷を睨みつけた。
「確かに……過去は、どう足掻いたって変えられない。だから、薄氷と一緒に居た時の『蘇芳』は本当に周囲にとって悪い狐だったのかもしれない。俺はその時のことを見ていないから、違うだなんて言い切れない」
「東雲……」
「……」
東雲の言葉に、左京は少しばかり寂しそうな表情となり、稲荷は俯いた。
「ほら、東雲くんもそう言ってるじゃない」
「でも……‼」
「?」
「今の――稲荷眷属白狐の『右京』のことなら俺だって少しは分かるし、断言出来る! 俺の知っているアイツは、そんな奴じゃないって‼」
バキィィィィン!
東雲が言い切るのと同時に、大きな音を立てて呪詛の膜は破られた。
「⁉」
膜の中に居た者全員が、割れた先へと視線を向ける。
壊された膜は地面へ落ちると氷のように解けてゆき、濁った水溜まりを作り出す。更にそれらは、一箇所に引き寄せられると半透明な固体と化した。
これ以上変化する様子こそ見られなかったが、その液状の塊からは、複数人は居るであろう禍々しい唸り声が聴こえてくる。
「~~何だよ此処は。空気が不味くて居心地悪ぃな……」
唸り声を上げる濁った水の塊を足で踏み潰し、蔓延する穢れの臭いに険しい顔をしているのは他でもない――右京だった。彼が刀で外部から一撃を与え、更に液状化したそれらを踏み潰すことで呪詛を祓ったのである。
「右京‼」
東雲は嬉しそうに右京を見た。その一方で、薄氷は困惑を隠せない。
「蘇芳⁉ な、何で……⁉ お前は今、コイツらと仲違いしてる筈じゃ……⁉」
「……はて? そうだったかのう?」
「ははは。稲荷様まで狐のようになられて」
仲違いをしていた筈の稲荷は口角を上げて「何のことやら」と小首を傾げ、事情を把握している筈の左京に至っては楽しそうに笑っている。更に右京は、頭を掻きながらそんな一柱と一匹の元へとやって来た。
「ったくよー……左京、お前は気楽で良いよなあ! 俺は今回の件で、稲荷様に悪態を吐かなきゃならねぇ苦痛を味わったってのに」
「あっはっは! 悪い悪い、よく頑張ったな右京」
「……フン」
「えっ? え⁉ お、俺もよく分からない……」
そんな幼き神と眷属達の話について行くことが出来ず、薄氷だけでなく東雲さえも頭の中は混乱状態にあった。
「ふふっ。やはり、東雲は予想通りの反応をしてくれたのう」
「そろそろネタばらしをしても構いませんよね、稲荷様」
「うむ!」
稲荷は楽しそうに笑って頷いた。左京は主の了承を得たことを確認すると、東雲に体を向けて告げた。
「東雲、俺達は以前から……お前が職場帰りに纏ってくる『人ならざる気配の残り香』を感じていたんだ」
「その残り香が俺の知ってる奴のものと似てたんで、密かに稲荷様に計画を提案してたんだよ」
左京に続き、右京も口を開いた。
二匹曰く、その計画というのはこうだ。
『東雲の周囲に居る異質な存在の正体を突き止めること』。――加えて、『燕が神隠しされた件で、妖術内容を左京から聞いた時……右京は実行犯に思い当たる節があったため、それと東雲の件が関係しているのかを確かめること』。
また、そのために『仲違いする振りをして右京は姿を隠し、相手の目を眩ませて動向を探る・尾を出す可能性に賭ける』ことを提案したのだった。
当然ながら、左京もその計画を知っていた。嘘を吐くのが苦手である東雲に本当のことを話してもボロが出る、または監視している者に気付かれる――そう読んだ彼は右京の過去を話し、「仲違いが深刻だ」と東雲ごと騙すことで信憑性を持たせ、陰で監視している者も欺けると考えたのだ。
「その『人ならざる気配の残り香』の正体が揖宿さん……いや、薄氷だったってことか……」
東雲が顔を顰めて薄氷を見ると、彼は不快感を剥き出しにして稲荷達を睨み続けていた。
しかし、そんな視線を向けられた稲荷も目を光らせて薄氷を見る。
「手始めにわたし達と接点のある人間を狙い、燕を神隠ししようと目論んだのも薄氷……うぬじゃな?」
「霊氷の妖術で直ぐに気付いたさ」
「……信じたくはなかったけどな」
稲荷に続くように、自分の想い人を危険な目に遭わされた左京も睨みを利かせる。一方の右京は、元・悪友という関係だったことを引き摺っているのか、少しばかり目を伏せて呟いた。
「更に右京とわたしが仲違いし、内輪揉めしてしまえば……我ら稲荷一派に隙が生まれるというもの。其処を狙って東雲にもちょっかいを掛けようと企んだのだろうが……甘いのう、実に甘い。――わたしの側近を見くびるなよ、薄氷」
「……っ‼」
幼くなったとはいえ、国津神の代表格一柱でもある稲荷大神・宇迦之御魂神に圧を掛けられた薄氷は思わずたじろぐ。そんな彼を庇うように立っていた女郎蜘蛛も、同様に神の力を感じ取ったらしい。何かに怯えるように、小さく後退りをするのだった。