第一話「燕の勧め」
三月下旬、京都――伏見区。冬の冷たい空気が徐々に変化して、桜の蕾も眠りから覚める頃。一人の青年が、この地へとやって来た。
「それじゃあ、我々はこれで」「失礼します」
「ありがとうございました」
荷物の搬入を終えた引っ越し業者を見送った後、荷解きをある程度済ませた青年は腰に手を当てて体を反らせた。
東雲 由貴。東海地方の大学に在学していた頃から、『京都モノノケ出版』の在宅ライターとしてアルバイトをしていた。卒業を機に正社員登用が決まったので、本社のある京都へと越してきたのである。
東雲が生活の拠点とするのは、『アパートつばめ』。『京都モノノケ出版』の編集長である富代から、「知り合いが大家をしている」と紹介された深草獄楽寺町にひっそり佇んでいるそのアパートは、築二十二年で所々リフォームもされた小綺麗な外観をしていた。
内部は1LDKで、風呂とトイレは別。キッチンも大きく、一人暮らしには十分過ぎる広さだった。家賃においても、聞いていた金額より更にお値打ち価格とされたものだから、東雲は当初「曰く付きの物件なのでは」と疑った程だ。しかし、実際はそのような心配もなかった。ともなれば、以降はとんとん拍子に進むだけだ。ここまで条件の良い物件を逃してなるものか――と、東雲はその場で即決して書類に判を押した。
下宿先に持ってきた荷物は少なかった。後は、段ボールに入っている小物をそれぞれ整理して配置すればいい。これより、晴れて新生活の始まりである。
東雲は外に出ると、快晴の空を見つめて考えた。
「さて、今から何をするかな」
「あら東雲くん。荷解きはもう終わったの?」
声の主は、このアパートの大家である燕だった。彼女は白髪交じりの髪をいつも後ろで団子結びにし、猫背になって花壇に水をやることを日課としている。東雲が富代に紹介された賃貸仲介会社の者と内見に行った時も同じ姿であった。
燕は穏やかな表情で相手の目を見つめながら、ゆっくりと話をしてくれる。そのしぐさから滲み出る優しさに実家のような安心感を得たことが、最終決定の後押しにもなっていた。成人した男とはいえ、実家は恋しいものである。
「思ったより早く片付いてしまって」
「今日は、もう予定はないの?」
「はい。京都を散策してみようと思ってるんですけど、なにせ土地勘がないもので……。手始めに、近場から攻めようかと」
東雲はポケットからスマートフォンを取り出し、慣れた手付きでパスコードを入力する。その様子を穏やかに見つめながら、燕は言った。
「だったら、伏見稲荷大社に行っておいで」
「伏見稲荷? ああ、あの大きな稲荷神社ですか」
「名前くらいは聞いたことがあるでしょう。あそこには宇迦之御魂神という、それはそれは美しい神様が主祭神の一柱としていらっしゃるのよ。私は小さい頃から手を合わせに行っていたの」
「燕さんにとって、その神様は身近な存在だったわけだ」
「そうなのよ。ここから北に歩けばすぐだから。これから長い間この地でお世話になるのなら、東雲くんもご挨拶してきたらどうかしら? 近くには商店街もあるから、今は観光客でごった返しているかもしれないけどね」
悪戯に笑う燕に「人が多いのは大変そうだなあ」と苦笑しつつも、第一候補とした。
実のところ、東雲には霊感があった。それが災いしてか、寺社仏閣でさえあまり良い思い出もなかったのだが、今回は不思議と「行きたい」とさえ思えた。
理由は二つ。新生活で浮足立っていたこともあるのだろうが、燕には「京都での生活を謳歌してほしい」という厚意から賃料を安くしてもらったり、引っ越しまでの間も何かと親身になって助けてもらったりと恩があった。そんな恩人である燕が勧めるのだから、東雲にとって断る理由にはならなかったのだ。
もう一つの理由としては、『稲荷』と聞いて何処か惹かれている自分が居たからだ。
「呼ばれている」――何故だか、そう感じたのである。この感覚を上手く表現こそ出来なかったが、目に見えない力に誘われるように、東雲は表示された目的地へと足を進めた。