第二話「二人の朝」
稲荷が目を覚ますと、ジュウジュウと何かを焼く音が聞こえた。音の正体を確認すべく体を起こせば、自分がベッドの上に居ることに気付く。稲荷は、ぼんやりと扉の先を見つめた。
恐らく、先に起床した東雲が横で寝ている自分をベッドに移動させてくれたのだろう。――まだ半分眠っている頭で考えていると、少しだけ開いていた扉の隙間を通って珈琲の香りがほんのり届き、次第に稲荷の頭は覚醒していった。
欠伸をしながら、稲荷は匂いにつられて部屋を出る。
「おはよう東雲」
てちてちと歩き、稲荷は東雲に近付いた。
「おう、おはよう。今簡単な朝食を作ってるから、顔洗ってこい」
「あい分かった」
稲荷は目を擦りながら、洗面台へと足を進めた。東雲はちらりと稲荷の様子を確認すると、再び手に持っているフライパンの中身に視線を戻す。半焼けになった卵を箸で巻いてそれを軽く持ち上げると、第二弾の溶き卵を流し込む。パチパチと油が跳ねる様子を見つめながら、東雲はすんなり稲荷を受け入れている自分に笑ってしまう。
「親戚の子どもを預かってるようなもんか」
「東雲、届かぬ」「ええ?」
稲荷が浴室から顔を出して困った表情を浮かべていたので、東雲は火を止めて洗面台まで向かった。
「ほら」と実践する稲荷。洗面台は高さがあり、子どもの稲荷が背伸びをして腕を伸ばしても届きそうにない。
「うーん……確かに台がいるな」
「顔も洗えぬ、歯も磨けぬとなると、流石にわたしも困るぞ」
「……仕方ない。今日、仕事の帰りに買ってくるから。罰当たりかもしれないけど、今は勘弁な」
そう言って稲荷を抱き上げると、東雲は洗面台の蛇口に届くように腕を動かした。
「おお、これは良い!」
稲荷は嬉しそうに蛇口から水を出すと、両手に溜めてバシャバシャと顔を洗い始めた。東雲は片手で稲荷を抱えながら、もう片方でタオルを用意する。稲荷が顔を洗い終えるとタオルを手渡し、使っていなかった歯ブラシに歯磨き粉を付けた。
「手慣れているな?」
顔を拭き終え、歯ブラシを受け取った稲荷が問う。
「甥達の面倒を見ていたことがあるからな」
東雲は手際よくタオルを受け取って洗濯機へ入れ、稲荷を床へと降ろした。
「兄弟がいるのか?」
「姉が一人な」
「そうか、わたしにも兄が一人居るのじゃ」
「へぇ、……どんな神様なんだ?」
東雲が問うと、稲荷は考え込む仕草をして言った。
「正月に、しめ縄や門松が立っている家に上がり込んで福を齎して去っていく」
「ははっ。その言い方だと、ただの不法侵入者じゃないか」
暫くして――稲荷がヒョコヒョコと跳ねながら両腕を伸ばした。
「東雲、歯磨きが終わったぞ。抱っこ! 抱っこじゃ!」
「ちゃんと奥まで磨いたか?」
「うむ!」
東雲は再び抱き上げ、用意していた水入りのコップを手渡す。
「おお、同じ目線じゃ!」
「はは、何だそりゃ」
具象化――姿が見える状態にしている稲荷は、鏡に映る自分と東雲の目線が同じであることに新鮮さを感じて喜んだ。
「東雲よ、髪も梳いてくれ」
「いいけど、その前に飯作らないと」
口を漱いだ稲荷を降ろすと、困ったように笑ってキッチンへと戻る。――そんな東雲の後を、稲荷は楽しそうに追うのだった。