第八話「稲荷の事情」
――『アパートつばめ』三〇一号室。
東雲の部屋に上がると、稲荷はてちてちと歩いて部屋を探索し始めた。
「ほう、面白いな」
「ごく普通の部屋だろ」
東雲は溜息を吐くと、冷蔵庫からほうじ茶を出して二人分のガラスコップに注ぎ、一つを小さな折り畳みテーブルの上に置いた。
「……東雲よ、緑茶はないのか」
「ぜ、贅沢な奴め……!」
稲荷の小言を横目であしらうと、東雲は全力で走った後に飲む茶は格別だと言わんばかりに喉を鳴らして流し込んだ。その様子を見ながら、真似るように稲荷もコップに口を付けた。
「……それで? これからどうするつもりなんだ?」
飲み終えたコップを置いて、東雲は尋ねた。稲荷がピクリと反応して動きを止めたが、彼は構わず続ける。
「一時的に俺の家に隠れていたとしても、また襲われない保証なんてないだろ? 俺だって明日から仕事もあるし。常に一緒にいてやれるわけじゃないからな」
東雲の言葉にきょとんとした後、稲荷は笑い出した。
「何を言われるかと思えば……。その言い分だと、其方はわたしを受け入れる気でいるのか。先ずは拒むものであろうに……ふふふ」
「あ。普通は、そうか……」
東雲は手を口に当て、困惑した表情を浮かべた。
「其方がそういう体質であることも、わたしは知っておるよ。だからこそ、呼んだのだからな」
「え! じゃあ、あの時の声って……」
「正しくは、其方も先ほど見たであろう。眷属の白狐達に呼ばせたものだ」
「確かに、俺は多少の怪異は慣れてる方だと思う。……けど、神様に呼ばれるなんてことは初めてだったから」
目の前の子供が本当に大家の言っていた『宇迦之御魂神』だとするならば、とんでもない話だ。――東雲は今でもこの状況が夢のようで、覚醒させようと自らの頭を掻いた。
「人間が気付かぬだけじゃ。わたし達は、いつも見ておるよ」
「そうなのか?」
「ふふ。神に対して怖気づくこともせぬか。実に面白いぞ、東雲よ」
「いや、だって神様がこんなに小さいなんて思わないだろ……」
尚もケタケタと笑い続ける稲荷に、自身の情けなさが浮き彫りになってゆく。東雲は何だか恥ずかしくなり、話題を逸らす為に口を開いた。
「そ、それより! 何で……えっと」「稲荷で良い」
「――稲荷は、何で鴉天狗に狙われてたんだ?」
「その話か。……うむ、ここまで巻き込んだ以上、話さねば理に適わんな」
稲荷は、窓際に置かれていた一部栄養が足りていない観葉植物を見つけると、弱っている葉に優しく触れた。――東雲は目を疑った。触れられた葉は小さく光ると、緩やかに姿勢を正すように、みるみる元気になっていったのである。
「わたしが今できるのはこの程度のことだ。本来ならば、雨を降らせ、草木を茂らせ、五穀豊穣を齎す役割を担っているというのに……。今では、少しばかりの栄養を与えることしかできない。神通力とて制限されている。半月ほど前、神在月に出雲で父上に歯向かった際、『己の思想を改めよ!』と、力を半分ほど瓢箪の中に吸い取られてしまってな」
「だから、子どもの姿に?」
「そうだ。そこを鞍馬山の大天狗が狙ってきたのだ。あやつは欲深いからな」
「いや、でも……だからって、何でその大天狗が神様を狙うんだよ。しかも稲荷を。『稲荷だけが持っている力』を欲してるから……とか、そういう理由か?」
「『力』だけが目的ならば、どれだけ良いか」
稲荷の顔は青くなり、身震いした。
「……目的は、『力』だけじゃない?」
まだよく分からない――と、東雲が稲荷に問いかけた時。
ガタリ
窓の外から物音が聞こえた。
一人と一柱は同時に窓を見る。――カーテンで遮断されていてはっきりとは見えなかったが、ベランダでゆらゆらと蠢く影の存在に気付いた。
(もしかして、また鴉天狗が……⁉)
東雲は稲荷を後ろに隠すと、恐る恐る窓際に近付く。
「し、東雲……」
稲荷が不安そうな表情を浮かべ、東雲の裾を掴んだ。その様子を確認した後、東雲は覚悟を決めてゆっくりとカーテンを開けた。