8.束の間の休息
食事を終えたリリーたちはチャドに率いられ、リダウト商会の温室を見学させてもらうことになった。
その巨大なガラス温室の中は、見たこともない鳥が飛び交い、花々が咲き誇り、まるでこの世ではないような美しさだった。リリーは仰天しながら、顔を天に晒してくるくるとその場で回転した。
「す、すごい……!」
「リダウト商会のこの温室は、世界最大と言われている。世界中の珍しい鳥と植物がここに集結するんだ」
エディはそう説明しながら、商品の選定に余念なく鉢植えのひとつひとつを手に取る。
「チャド様、この花は何ですか?見たことのない花だ」
「それはプリミゲニア。球根植物だが、その根に薬効があると原産地ツールース島では言われておりますな」
「同じような花だが、色んな色があるな……」
「うちでも、現在必死に色柄を増やすべく品種改良中です。丈夫な花だから、その内これが世界で取り合いになると思いますよ」
リリーはリダウト商会の薬草園の規模に舌を巻いた。そして、自分が見ていた世界は何と狭かったのだろうと無知を痛感する。
(あの公爵領の本や植物の知識だけでは、世界の薬草園に就業する時には通用しないかもしれないわ)
「リリー」
エディが声をかけた。
「王立薬草園にこの花を送ろうと思うが、どうだろう?」
リリーは、おっかなびっくりだが頷いて見せた。
「素敵だと思います。でも、まだ私は王立薬草園の一員では……」
「女性の意見も聞いてみたかったんだ。どの国に卸すにしても、花を買い求めるのは結局のところ女性だから」
エディはチャドと商談に入った。リリーは目に入る様々な花とその名前を片っ端から頭に叩き込んだ。もしかしたらこの先二度と出会えないような植物だってあるかもしれないのだ。
温室から出ると、二人はベンチに腰かけて風にふかれた。
リリーはふと思う。こんな風にただ何かを与えられ、ぼーっとしたのはいつぶりだろうか。
「なあリリー。せっかくだから、街へ出ようか」
そう声を掛けられ、リリーは驚いてエディを見上げた。彼は嬉しそうに微笑んでいる。
「暗黒大陸に入れば、お互いどんな目に遭うか分からないんだ。やりたいことをやるなら今の内だぞ」
リリーはじっと考えてから、冷や汗をかいた。
なんと、やりたいことがない。
「リリー、どうした?」
「エディ。あの……私、ずーっと仕事と勉強ばかりして来たから、暇な時、何をしたらいいのかよく分からないの」
「えっ……そうなの?外に出ないなんてもったいない。そんなに可愛いのに」
リリーは「ん?」と何かに引っかかったが、エディは慌てて誤魔化した。
「あ、違っ……ほ、ほら……美味しいもの食べたいとか、お芝居を観たいとか……眠りたい、でもいいし」
「特にないわ。エディこそ、何かしたいことないの?」
エディはしばらく目を見開いて黙ってから、こんなことを言った。
「あの……買い物がしたいんだけど」
「そう。行ってらっしゃい」
「えーっと……リリーも一緒に、どう?」
リリーも目を見開いた。エディは一息に語る。
「あのっ、別にデートに誘ってるとかいうわけじゃなくて……!リリーにも持って行って貰いたいものとかがあるし、見て欲しいものもあるし、一緒に味わいたいものも……じゃなくて、これから旅に出るに当たってお互いのことをもう少し知っておく必要があると思うし、お互い苦しい旅にならないように、物質的にしろ意識的にしろ、この街にいる間に意見を共有しておくべきだと思うんだ!」
妙に熱がこもっているが、とりとめのない話に終始している。リリーは少し訝しがったが、悪い気はしなかった。エディが何かを語る時の真面目さに触れるたび、自分の中に嬉しい何かが蓄積されて行くような気がしていたから。
リリーはようやく笑顔を見せた。
「いいよ。どこに行くの?」
エディの表情がぱあっと晴れ、彼は立ち上がる。
「買い物に行こう!市場があるんだ」
「市場……何があるのかしら」
リリーも立ち上がった。
二人は商会を出ると、港にある市場に向かって歩き始めた。
エディに連れられ街へ出たリリーは、男性と連れ立って歩いている女性たちの姿に目を奪われる。
皆、精いっぱいのおしゃれをして輝いていた。それを眺めながら、リリーはちょっと気後れする。
(みんな、凄く可愛い服着てる。それに、アクセサリーも素敵)
リリーはエディの隣を歩くのに、だいぶ貧相な服装で申し訳ない気がして来た。今後ひとりの女性として日常を難なく暮らすために、装飾品のひとつぐらいは買ってもいいのかもしれない。それにリリーはエディの隣で、もう少し胸を張って歩きたかった。
市場にやって来たリリーは、すぐ手前の土産物の前で足を止める。
真珠で作られたアクセサリーがたくさん置いてある、小さな屋台の前に立ち尽くす。
リリーは吸い込まれるように、小さな真珠を数珠つなぎにしたネックレスを手に取った。
「これ、ください」
そう店員に告げ、財布を取り出し金を払う。
それを見るや、少し離れた場所からヤシの実ジュースを抱えたエディがすっ飛んで来た。
「リリー!言ってくれれば俺が出したのに……」
リリーは首を横に振った。
「これ以上あなたを頼るわけには行かないわ。これは私が私のお金で買うの」
エディはため息を吐いてから、ちらと店の真珠を見やった。
「リリーって、真珠好きなの?」
「何て言えばいいのかしら……私はアクセサリーをひとつも持ってないし、これからの日常生活を考えて、こういう装飾品をひとつくらいは持っておいた方がいいかなって思ったの。街の女の人、みんな素敵な格好だった。それに、ランドールやレミントンのある大陸では真珠なんてなかなかお目にかかれない。出会ったとしてもこんな低価格では買えないから」
リリーはそのネックレスを首にかけた。
「どうかな?」
エディは微笑んだ。
「いいね、似合ってる」
「ありがとう」
エディは彼女と微笑み合ってから、すぐさま店員に言った。
「あの真珠のイヤリングもください」
「えっ。ちょっと、エディ?」
「はい、リリー。これもつけなよ」
リリーは「もう……」と困惑の表情になったが、エディがあんまりニコニコして差し出して来るものだから、受け取ってしまった。イヤリングをそうっと両の耳に着けたリリーを見て、エディは悶える。
「やっぱりセットでつけた方がいいよ。顔周りが華やかになるからね」
「エディったら、店員さんみたいなことを言うのね」
「……駄目だった?」
リリーは次第に、エディのペースに巻き込まれて行くのを感じていた。
「……いいえ、嬉しいわ。ありがとう」
けれど、それはとても心地が良かった。以前のリリーは男性を見ればとにかく警戒心が先に立ったが、エディは何をするにも一旦は引く姿勢を見せるので、いちいち警戒する必要がなかったのだ。
彼は気を遣ってくれる。
それだけで、こんなにも安心できるとは思いもしなかった。修道院では誰かから気遣われたことなどなく、それがいつの間にかリリーに他者への過剰な警戒心を纏わせていたのだった。
真珠をつけると、心が和んだ。
ぽっと胸の中に火がついたように。
リリーは真珠のイヤリングのついた耳をしきりにまさぐりながら、エディの後ろをついて歩いた。ふと彼の背中を眺め、リリーは考える。
(あれ?エディって、こんなに背高かったっけ……?)
リリーは、自分の視線や視界が変わり始めていることに気づいた。しかしそれがどうしてなのか、彼女はまだ自分の中に答えを見つけられずにいた。