2.本に挟まれた万能薬草
リリーは自室に戻ると、修道院を出る準備を始めた。
本棚から、母の形見の薬草事典を取り出す。開くと、見慣れない紋章の焼印を押された木の皮のようなものが一枚、挟まっていた。
この木の皮のようなものが、〝万能薬草〟。
リリーは荷物を詰めながら、これを娘に託した亡き母のことを思い出す。
**********
男爵家の次女で、その美貌で名を轟かせたリリーの母、ウェンディ。
彼女は恋に奔放に生きた。娘からすると「母親」として尊敬は出来なかったが、「女性」としては羨ましいような、恐ろしいような、そんな彼女であった。
ウェンディは世の中の全てを愛することが出来た。彼女は自ら湧き上がる愛を持て余していて、誰にでもそれを分け与えようとするのである。父であるレイノス伯爵と彼女が出会ったのはその血潮が火山のように噴出する時期で、その火花のような恋がリリーを生み出した。
レイノス伯爵はウェンディのひとつ年下で、その当時は奔放な彼女に心酔していた。それが正妻の嫉妬を買い、ウェンディは居場所を無くした。親からも愛想を尽かされ住まいを追い出された時、ウェンディはレイノス伯爵にリリーの修道院入りに協力してくれるよう打診する。リリーが12歳になった頃だった。しかしレイノスはその頃は既に別の女に懸想しており、二人はほぼ捨て置かれ、貧しい生活を余儀なくされていた。
レイノス伯爵とウェンディの間で話がついたのは、その頃。
リリーを修道院に入れる代わりに、伯爵と一切接触しないと約束させられていたのだった。ウェンディは娘を連れ別荘を出た。その頃から、母の様子が目に見えて衰弱し始めた。腹の中に大きな腫瘍が出来、それが悪さをして彼女の体力を奪って行ったのだ。
重い病に侵されたから伯爵に捨てられたのだ、とリリーは幼なくとも気づいていた。その頃からだろう、「男は信用ならない」と悟ったのは。
そして何より、男に頼らなければろくな治療も受けられずに追い出されて死んで行く、女の立場の弱さにも幼いリリーは絶望感を覚えたのだった。
最後は小さな町の修道院に二人は身を寄せた。その傷病院で、瘦せさらばえた母はリリーに言った。
「リリー、これをあなたに」
母が彼女に託したのは、一冊の本だった。持ち運べるサイズの、薬草の事典である。その真ん中に木の皮が一枚、栞のように挟まれていた。
「お母様、これは……?」
「この木の皮みたいなものはね、〝万能薬草〟よ」
リリーはそのへんてこな名前を聞き、心の中で「そんなものがあるわけない」と思った。大体これが万能ならば、母は病で死なないはずなのだ。誰かに騙されて高値で売りつけられたりしたのだろうか。
「その薬草はね、高熱が続く病気に効く……以前、恋人に貰ったものなの。その人は事故で亡くなってしまって……形見みたいなものね」
恋人の形見を娘に託す母にちょっと困惑したが、いかにもウェンディらしい終幕だとリリーは泣き笑いした。
「何か困ったことがあったら、これを使いなさい。きっとあなたを助けてくれるわ」
それが、母と交わした最期の言葉であった。
**********
のちにリリーが〝万能薬草〟を調べて分かった。これは本当に〝万能〟なのではなく、現地語を直訳すると〝万能薬草〟となる、感染症及び熱病全般に効くというある異国の植物ということであった。しかしその異国は「暗黒大陸」と呼ばれている地域の中にあり、いったん足を踏み入れるとあらゆる病に侵され生きて帰ることは出来ないという未開の地──とのことだった。きっとこれを持ち帰った母の恋人とやらは、冒険者か何かだったのだろう。
リリーは鞄にそれをしまった。持ち運べる薬草辞典としては、なかなか巷で見かけない上等な本である。きっとこれを使っていた研究者とやらも、いい家の男だったに違いない。
リリーには船出の切符が与えられた。回数券または金券のようなもので、これを千切ってもぎりに渡す。金額としては世界一周出来そうだ。そしてこれを全部使い切る頃には数年経っていそうだ。果たしてその間に万能薬草など手に入るのだろうか。暗黒大陸で謎の疫病にかかって死ぬ未来しか見えない。
リリーは一旦船に乗せられるそうだ。追い出したと周囲に悟られぬよう、修道会を上げて盛大に送り出してくれるらしい。
(馬鹿正直に万能薬草なんか探す気はないわ)
彼女が降りる場所など誰も知りようがないのだ。さっさと言葉の通じそうな寄港先で降りて、別の仕事を探せばいい。
(舟券も売り払えば多少のお金になるでしょう。そうなると、手元にいくら残るのかしら)
手持ちのものを寄せ集め、金策を練る。しかし、すぐに尽きそうだ。次の職場を探すのが急務となる。
(どこか、働ける薬草園でもあればいいのだけれど)
リリーは薬草標本をかき集めた。今の内に作れる薬は作っておいて、困ったときに飲むにしろ売るにしろ、持っておきたい。
金はないが、しかし──
(持っている知識は、死なない限りなくならないわ)
最悪の状況でも、そのことについては修道院に感謝しなくてはならないだろう。公爵領の中にある資料は、修道女ならばいくら見ても良かった。リリーはありとあらゆる文献に目を通し、大抵のことは頭に入れてあった。
それだけが救い。
それから一週間ほど、リリーは修道院内で「見えないもの」として扱われた。全員に無視され、仕事も外された。担当していた植物の全てがなぜか枯れていた。そんなことを平然としている彼女たちの醜態を眺め、リリーはむしろ今回のことは、修道院を出るいい機会だったのだと思った。
この際だから、新しい何かを見つけよう。
リリーはそう心に決めた。
そして、船出の日がやって来た。
修道院から一番近いエドウズの港に、公爵に修道院長、修道女の数名を伴いリリーはやって来た。送り出すと言うよりは、逃げないよう監視されていると言った状況だ。
アレクシスは来ていなかった。
公爵は念を押すように、リリーに囁く。
「追い出されたと他言したとの情報があれば、どうなるか分かっているな?これは温情なのだ、帰って来るんじゃないぞ。とにかく下手をうったら、命はないと思え」
物騒なことを言うものだ。出来ればリリーを抹殺したいのだろうが、評判を恐れるあまりそれは出来ないのだろう。
女の船旅は危険極まりない。護衛のひとりもいない状況で、リリーはひとり旅立つ。
「それでは皆様……さようなら」
多くを語らず、リリーは船に乗った。修道女の集団が、無表情でこちらに手を振っている。
リリーは出港し始めると、さっさと船室に閉じこもることにした。
女であると言うだけで、既に同乗客から好奇の視線を浴びている。いつ襲われるか分からない状況だ。リリーは船室に入ると、がっちりと中から鍵をかけた。
リリーは船室に置いてあるパンフレットに目を通す。食事の販売は朝と夕、食堂にて。無論風呂などはない。清潔に過ごして来たリリーには耐え難いが、しばらくの我慢だ。
リリーはしばらく眠ることにした。起きていると不安に押し潰されそうになって、余計な体力を消費してしまいそうだ。
船の揺れにまどろんでようやく眠った、その時だった──
「暴漢だ!暴漢が出たぞ!」
けたたましい叫び声がリリーの耳をつんざいた。
「ぎゃあっ」
それから叫び声と共に、この船室の扉に倒れ込むような音がした。
「……何?何が起きているの?」
怯えるリリーの呟きに反応したのか、扉の向こう側から声がする。
「痛ぇ……助けてくれ」
リリーはどきりとし、それから自分の荷物の中身を思い出した。
「そ、そうだわ。修道女に出来ることをしなくては──」
ナイフを懐に忍ばせ、リリーは用心に用心を重ねると、荷物を背負って船室の扉を開けた。
そこには、まだ幼い子供がひとり転がりうめいている。
「うう……痛えよー」
「待ってて、これはひどい……ちょっと縫うわね、痛みを我慢して」
リリーは荷物の中から針と糸、消毒液を取り出した。子どもの傷を縫っていると、背後から船員に声をかけられる。
「あんた、その格好は……尼さんかい?」
「はい、そのようなものですが」
「実は他にも怪我人がいる。これ以降の食事を全てサービスするから、怪我人の治療に当たって貰えないだろうか」
リリーの薬が早速役立つことになってしまった。困ったと思いながらも、これでも修道女のはしくれ、誰かの役に立てるなら本望だ。
「けが人はどこに……」
「こっちだ。暴漢は船内に潜んでいる。危ないから、甲板へ出したんだ」
リリーが甲板に駆け上がると、暴漢が赤い髪の騎士に襲いかかっていた。
「あれが暴漢……?」
「気をつけろ、もうひとりいるんだ」
「?」
「暴漢は二人いる。その内のひとりを今、赤い髪の騎士がどうにかとっちめようとしている。我々も何が起こっているのかさっぱり分からない。あいつらは仲間だったはずなんだが──」
つまり仲間割れということなのだろうか。船は急に止まれない。どうにか暴漢を倒し、次の港に着くまでに安全を確保しなければならない。
リリーは甲板についた血痕を見る。点々と辿れば、赤い髪の男が血を流しながら戦っている。
「駄目だわ、怪我をしながら戦ったら、赤毛の騎士の命が危ない……他に助太刀できる人はいないの?」
「あいつらはかなり屈強な戦士なんだ。素人が太刀打ち出来る相手じゃねぇ」
リリーは荷物からさまざまな薬剤を取り出した。
「……なら、私がやるわ」
「お、おい尼さん……?」
「船員さん、ワインの空瓶を持って来て。早く!」
リリーは渡された瓶の中に布を入れ、薬剤と油を混ぜたものを流し込む。
その瓶の口から出ている布切れにマッチで着火すると、彼女は暴漢にぶん投げた。
それが暴漢の肩に当たり、マントに火が燃え移る。
暴漢が怯んだ、その時だった。
「……今!」
赤毛の騎士が暴漢を剣で押し、船縁に追い詰める。そこから形勢有利と見たのか、ようやく船員たちが加勢した。
男たちの力で持ち上げられ、暴漢は海へ落とされる。
リリーはへなへなと床へ這いつくばった。当たって良かった、下手をしたら狙いがこちらに向く可能性もあったのだ。
赤毛の騎士も肩で息をし、柱を背に一息ついている。
その時だった。
「……動くな!」
リリーは背後から羽交締めにされる。
もうひとりの暴漢が、甲板に出てきたのだ。
赤毛の騎士はそれを見て、ふらりと立ち上がった。
「……その娘から、手を離せ」
リリーの首に剣の刃先が当てられる。リリーはガタガタと震えが止まらなくなった。