1.リリーはわきまえる
レミントン王国内、東方に位置するシェンブロ公爵領内に、小さな修道院がある。
その修道院の前には色とりどりの花畑が広がっている。更に向こう側には、最新鋭のガラスの温室が煌めく。薬草園だ。レミントン国内の薬に使われる多くの薬草が、この温室で作られているのだ。中では若い修道女たちが、木々や花々に囲まれて立ち働いていた。
ブリキのポットで花の根元に水を上げていた栗色の髪の修道女リリーは、先輩修道女であるルイーザから声をかけられた。
「アレクシス様から呼び出しよ、リリー」
はい、と軽く返事をして、リリーは小走りに温室を出て行く。ルイーザはその背中を見送ってから、仲間にこっそり耳打ちした。
「今週に入って何度目の呼び出しかしら……?」
「三回目です。シスター・ルイーザ」
「多すぎじゃない?何をそんなに構う用があるのかしら、アレクシス様も」
「さあ……けれど、シスター・リリーの知識量や技術は誰しも認めるところですから。あんなに研究熱心で記憶力のいい娘はなかなかおりません。アレクシス様も、ついシスター・リリーを頼ってしまうのですわ」
「ふん。伯爵の妾の子のくせに、運良く修道院に転がり込んで私たちと同じ貴族面していられるなんて信じられないわ。少し前の時代なら、召使いになれるかどうかってところじゃないの。なぜアレクシス様はあんな娘を……許せない!」
周囲の修道女たちは苦笑いした。格式を重んじる家の子女である彼女たちは、内心ルイーザと同じように思っているのも偽らざるところであった。
リリーは贔屓されている。それは周囲の目にも明らかだったのだ。
ルイーザは先程リリーが水をやった鉢植えに手を伸ばすと、わざと少なめに植物の葉を掻いた。生育に必要な葉の数を間引きし、素知らぬ顔で陽の当らぬ場所へ放置する。
腹立ちまぎれの嫌がらせだ。修道女たちは、見て見ぬふりをした。
リリーはアレクシスの居城に向かっていた。
修道院から馬に乗って、花畑を抜け公爵家の城まで移動する。門の前で執事と落ち合うと、アレクシスの書斎まで案内して貰った。
公爵家の次期当主、アレクシス。
金色の髪に青い双眸。整った顔立ちで、社交界に出れば令嬢たちが傾くと言われるほど人気がある。派手好きで、色んな令嬢とひっきりなしに浮き名を流していた。
リリーも修道院に来た当初は彼の美貌に息を呑んだ一人だったが、現在では彼を警戒している。
リリーが書斎に入ると、アレクシスが手招きする。
しかし、彼女は動かなかった。
「お話はここで伺います、アレクシス様」
生真面目なリリーは彼と距離を取った。どこかで誰かが見ていて、あらぬ噂を立てられたらかなわない。
というのも──
「リリー。この薬草園を広げるには、君の知識が必要なんだ。この前の新種の植物の株を増やすのに、何かいいアイデアはないか探していてね」
そう言うなりアレクシスは歩き出し、身構えるリリーの肩をぐいと抱いた。リリーは肘で押し返す。
彼はその顔面の良さをかさに着て、女なら迫れば自分の言うことを聞いてくれると思っている。生真面目なリリーからすると、許可も取らずに他人の体に触れてくるなど同性でも言語道断だ。アレクシスは何度嫌がっても隙あらば顔を近づけて来たり手に接吻をしようとして来たりするので、リリーは彼からの呼び出しにいつも怯えていた。
「……っ。おやめください」
「つれないな。社交界に出れば、こんなことはいくらでもある。今から練習しておくべきだ」
「私は社交界には出ません。妾の子ですから、資格がないのです」
アレクシスはふんと鼻を鳴らすと、リリーの耳に囁く。
「君も知っているだろう。この修道院の成り立ちを──」
リリーはこわごわ頷いた。
この修道院は、つまるところ令嬢の教育機関のひとつなのだ。
普通、貴族の子女は家庭内教育を行う。家庭教師をつけ、みっちりと良妻賢母になる教育を施されるのだ。
しかし昨今金銭的に余裕のない貴族が増え、修道院で教育するケースが急増した。かつては宗教者の娘を教育するはずだった修道院は、貴族の寄進で運営する女学校へと変貌を遂げたのである。修道院の売りは「宗教教育」と「勉学」であり、そこから婚家に入れば貞淑な女であると印象づけられる、という寸法だ。更には「わけあり」や「寡婦」になった時、受け皿となってくれるというメリットがある。
シェンブロ公爵家は、こういった修道院を数百年に渡って運営して来た。そして修道院をそのような教育機関に押し上げたのも、この公爵家なのである。シェンブロ家がこのような運営をして来なければ、追随する修道院は各地に産まれなかったであろう。
そんなわけで、リリーも貴族のはしくれとしてこの修道院に入れられたのである。
しかしこの修道院には、もうひとつの側面があった。
「この修道院は、もともとシェンブロ家の奥方を選ぶために建てられたのですよね」
リリーはあっけなくそう言ってアレクシスを睨んだ。
「しかしながら私は正式な貴族の直系ではございませんので、生憎そのようにはなりません」
アレクシスは髪をかき上げた。
「シェンブロ家は、代々学者なのだ。頭のいい妻を娶るため、修道院で教育を始めたという経緯がある。馬鹿で役立たずな女を妻に迎えることは出来ない。だから私も君を──」
「ですから、私は傍流ですのでそういった話は無理なのでございます」
「うーん、どう攻めたものか……」
「恐らく、アレクシス様は私を後腐れなく自由にできる女とでも思っていらっしゃるのでしょう?私は貴族界の根無し草でございますから」
図星だったのか、アレクシスが言葉に詰まったのが見て取れる。リリーはその様子がありありと分かって、惨めな気持ちになった。
「私はここ以外に住む場所がございません。今は亡き前公爵様に必死に陳情して私を修道女にしてくれた母も他界しておりますし、父も私を邪魔者扱いです。私はつまらないことで失敗するわけには行かないのです」
彼女の反撃にアレクシスは少し苛ついた様子を見せたが、
「そうだよな……君はここにしか居場所がないんだ。逃げ場はない」
と、どこか満足げに呟き、ようやく手を放す。リリーは再び彼がデスクに座ったのを見届けてから語りかけた。
「話を元に戻しましょう。新種の株を増やす方法ですよね。それなら差し芽で行けます」
「……なぜか君以外だと、その差し芽が上手く行かなくてね」
「おかしな話ですが、差し芽の得意な手と、不得意な手の持主がいるそうですわ」
「十人にひとり、上手な奴が必ず現れる。昔からそうだ」
植物の話になると、アレクシスはようやく学者の顔に戻るのだった。
リリーとアレクシスは新種の株について意見交換をした。差し芽を温室に置いておき、肥料をどの間隔でやるべきか実験例を話し合う。
その日はそれで別れ、リリーは修道院内に戻った。
しかしその宵、修道院内は奇妙な空気に満ちていた。
リリーが食堂に立ち寄ろうとすると、院長から呼び止められる。
「シスター・リリー。お話があります」
その声に、修道女たちが沸き立った。リリーは嫌な予感に顔を曇らせる。
(何かしら……)
ついて行くと、応接室に通された。
そこに座っていたのは、現シェンブロ公爵であるオーガストだった。金色の口髭をたくわえた壮年のその男は、リリーを見るや声を荒げた。
「シスター・リリー。私は貴様に言っておかねばならないことがあるのだ!」
リリーは何を言われるのだろうと、歯を食いしばる。
「貴様はアレクシスに懸想しているそうだな?」
リリーはゾッとした。彼を迷惑に思っていることはあっても、あのアレクシスを好きになるなど到底有り得ない。
リリーは反論した。
「アレクシス様に呼ばれたから出向いたまでです。執事とシスター・ルイーザはアレクシス様から言伝されているはずなので、私の潔白は証明されています」
「そういうことではない」
オーガストにそう言い切られ、リリーは困惑する。
「そんなことはどちらでも良いのだ。むしろお前がアレクシスに懸想し、言い寄っている。そういうことにしておいた方がこちらとしては都合が良い。とにかくアレクシスが下手を打つ前に、お前のような下賤な妾の子とは引き離さなければならない」
公爵は、一体何を言い出すのだろう。
「……それは一体、どういう……」
「かねてから修道女たちから、お前はアレクシスの贔屓だと文句が出ている。お前は公爵家と修道院を混乱させる女なのだ」
「……何をおっしゃっているのか、さっぱり……」
「お前の頭がいいのは私も知っている。しかし、人より秀で過ぎると良からぬ種になる。お前は賢いが、馬鹿だ。立ち回り方を何も知らない大馬鹿者……少し親からの教育が足らなかったようだな。女は嫉妬深いのだから、身分の低いお前はもっと腰を低くして暮らさねばならなかったのだ。それなのに、令嬢と対等に仕事をするばかりか、アレクシスの部屋に幾度となく出入りするなど、もってのほかだ!」
リリーは反論した。
「私は自分が場違いな人間であることは、重々理解しております。だからこそ、せめて薬草園ではお役に立ちたいと、誰よりも勉強し立ち働くべきだと──」
「だからどうした?それが今や全体の不満の種になっているではないか」
何を話してもとりつく島がない。次第にリリーは自らの立場を嫌と言うほど理解し始めた。
誰よりも働き誰よりも知識をつけアレクシスに目をつけられたリリーは、いつの間にか何もかもを敵に回していたのだった。絶大な権力を持つ、公爵家当主さえも。
リリーの足は震え出した。
(私は、修道院を追放される)
公爵に逆らえば、下手をすると命も危ない。リリーは後先を考え、すぐに現実に抗うことをやめた。
「……かしこまりました。どうぞ、私をお好きに処して下さいませ」
「お前には、暇を与える」
「暇……」
「追い出すと言うと人聞きが悪い。公爵からの命をおおせつかって旅に出た、ということにしてくれ」
人を追放しながら予防線を張る貴族ならではの回りくどいやり方に、リリーは内心辟易した。
「かしこまりました。それで、公爵の命、というのは──?」
「あらゆる熱病に効く〝万能薬草〟を採集する旅に出る、ということだ。この薬草園のために──どうだ、立派な理由だろう」
リリーは一瞬、どきりとした。
(オーガスト様は、万能薬草の名を知っている……?)
冷や汗を拭い、彼女は顔色を悟られぬよう努めて真顔を維持した。
「はい……おおせのままに」
「荷物がまとまり次第出て行け。特に、アレクシスには二度と会ってはならん」
「はい」
リリーはわきまえた。
それから、自室の本棚に挟んである万能薬草に思いを巡らすのだった。