箍
「おかえりなさい!」
エプロンで手を拭きながら、トトトとやってきた恋人に迎えられ、ナイジェルの口元は緩んだ。
「ただいま」
格好良く思われたいのに、一緒に暮らしてからは上手くいってない。
ベリルの一挙一動が可愛くて、ヘラヘラ笑ってしまう。
「今日はシチューだよ。あのね、ちゃんとナイジェルの好きなごろっとしたお肉入れたよ。あとは──」
説明する指の先の献立より、一生懸命に動く唇に目が言ってしまう。
「……美味そ」
「本当? 嬉しい。いっぱい食べてね!」
ぱあっと花が咲いたみたいに笑う。
ダメだ、可愛過ぎる。
『腰抜け』
『男かどうかを疑う』
ふと、暴君と銀狼の言葉が過ぎった。
そりゃあ、ナイジェルだってやりたい。
そんなことは当たり前だ、なんてたってやりたい盛りの十代様だ。
なんなら四六時中、そのことばかりを考えている。ましてや、一つ屋根の下である。
風呂上がりの濡れ髪や、上気したピンク色の頬、無防備な裸足の脚に、とろんと眠そうな顔、肩がはだけて隙だらけの寝巻姿、こちらを好きな気持ちを隠さない笑みと、名前を呼ぶ声や、何気ない視線──全部だ、そのどれも全てがナイジェルの理性を試す。
毎日毎日、ナイジェルの心臓は大演奏会である。
どきどきなんて可愛いものではない、騒音苦情が出そうな大爆音だ。とにかく煩い。
『大事にされてるのは嬉しくても、あまりにも何もないと不安に思うこともあるの』
今度は、秘書官の言葉を思い出す。
……いや、でも、しかし。
浮かぶ声の主に言い訳をさせてほしい──だって、見てみろ、あのベリルだぞ、と。
ご覧の通り、あのセピア色の円らな瞳は、無垢そのものだ。
その目を見れば、まるで赤ん坊が母親を信用するみたいに、こちらに絶大な信頼を置いている。
それは嬉しいが……頼むから、信じ過ぎないでほしい。
ナイジェルの頭の中は、不埒なことでいっぱいだ。
こんな下衆野郎を、まん丸いキラキラお目々でじっと見つめたり、肩や背中を白く小さな手で触るなんて危険なことはしないでほしい。
本当に危ないのだ、ベリルが。
それに、彼女は『男と寝る』という意味を知らない。
今の部屋を借りる時、「寝室はなんで一緒じゃないの?」と聞いてきたのだ。
一緒のベッドになんて……絶対ダメだ……。
よくもまあ、十九年間無事でいれたものである。
ナイジェルでなかったら、この娘はぺろっと美味しく食べられていただろう。
というか、ナイジェルだって、ぺろっといただきたい──でも、無理なのだ。
あんな、純粋で綺麗なベリルに、こんな邪で汚い自分が触れるなんて、できない。
ベリルの誘惑は失敗続きである。
「はあ」
入浴後、鏡台の前で髪を梳かしていたベリルは溜め息を漏らす。
マディソンの知り合いの恋愛の達人という人から聞いたお勧めの甘い石鹸も、可愛い寝巻も、ボディタッチも、上目遣いも、首を傾げるモテ仕草も、ナイジェルにはまったく効かない。
これは、技が、効かないのではなく、使用者が悪いからなのだろう……。
ベリルには『その気』になる魅力が全然ない。
──でも、今日はしたいことが一つある。
街の市場の青果店で、ケイト(七歳)から聞いた話を試したいのだ。
『パパとママはおやすみのチュウしてるよ。ベリルちゃんはしないの?』
青果店を営んでいるケイトの両親二人はとっても仲良しで有名である。
魚屋の奥方などは、呆れていたがベリルはとっても羨ましく思い、仲良しの秘訣をケイトにこっそり聞いたのだ。
なんと、二人は「おはよう」と「おやすみ」の(間に何度も)口付けを交わすらしい。
『女の子が積極的でも変じゃないと思うわ』
憧れのお姉さんの優しい言葉も思い出し、ふんっと拳を作る。
彼は物凄く淡白な人だが、ベリルは恋人だ。
多少呆れられても嫌われたりは……しないはずだ、多分。
コンコンと、ナイジェルの部屋をノックする。
彼は勉強熱心である。
「黙らせたい奴がいる」と言っていたので出世して何かから解放されたい事情があるようだ。
というわけで、集中できそうな週末の夜の時間はいつも勉強している。
軍人は相当な縦社会だ。
彼は第一支部に入ってから割とすぐに大きな傷を作ってきた。
理由は話してもらえなかったが先輩達に意地悪をされたに決まっている。ナイジェルはとてもすごい人なのでやっかまれたのだろう。
軍学校時代にも同じようなことがあった。あの時は二対十くらいだったと(レイから)聞いた。
ナイジェルはあの時もぼろぼろだった。
ベリルとしてはそういう辛い時に、ナイジェルを慰めたい気持ちがあるが、彼は話してくれない。
弱いところを見せまいとするのは格好良いと思うが、同時に少し寂しい。
「お茶淹れたから休憩しよ。一緒に飲んでもいい?」
「ああ、ありがと。いいよ」
勉強してるナイジェルは格好良い。いや、どの彼も素敵なのだけれど。
ベリルには、最低限の学しかないので彼が分からないことはもっと分からない。
それ以前に彼の読んでいる本は専門用語だらけでチンプンカンプンだ。
「こんな難しい本読めて、すごいね」
なんという語彙力も捻りもない感想だろうか。
それでも、ナイジェルはベリルの言葉にただ笑って「大したことない」と返す。
「ベリル、明日のことだけど」
「うん!」
明日の休みのお出かけの話だ。
楽しみで嬉しくてにこにこしてしまう。ナイジェルは、浮かれているベリルの頭を撫でてくれた。
彼はことあるごとにベリルの頭を撫でる。
嬉しいが、ベリルはもう十九歳だ。
母がベリルを産んだ年より上である──何が言いたいかというと、ベリルは子供ではない。『大人の女性』ではないかも知れないが、成人済みの大人だ。
お酒だってたくさんは無理だが、少しなら飲める。
ナイジェルが、自分のことを何も知らない天使だと思っていることなど、部屋の隅の埃ほども思っていないベリルである。
記すことでもないが、もちろん、ベリルは子供の作り方を知っている。
子供は樹から生るなんて御伽話が、真実でないことなんて十歳になる頃には分かっていた。
屑の父親が母と盛っているのを何度も見たことだってあるし、以前働いていた食堂では下世話な単語が飛び交っていた。
元雇い主の女将だって相当なお喋りだった。つまり、経験はないが耳年増というやつである。
「──ベリル?」
明日の話をしている途中で睡魔がベリルを襲った。眠い。
ふっ、とナイジェルが笑って、また頭をぽんぽんされる。
「もう寝ろ。眠そうな顔してるし……ここは危険だ」
ベリルはもう大人なのに、彼は子供扱いをやめない。
それに、何が危険なのだろう。ここにはナイジェルとベリルしかいないのに。
でも、眠いのは事実だ。眠くて堪らない。
「ちゃんと温かくして寝るんだぞ」
──信じられないかもしれないが、これは恋人と同棲四か月半目に突入した男(十代)の台詞である。
「……ね、ナイジェル」
「ん?」
ベリルはもう眠くて堪らなかったけど、自分に課したことは成し遂げる性格だったので、ナイジェルの肩に手を添えて頬に自分の口を、ぷちゅうっと押し付けた。
「──は?」
「よだれ、付いちゃった……」
ぐらついて勢いをつけ過ぎたようだ。
袖で彼の頬を拭う。
そして、『どきどき』よりも眠気が強い。
こういうところが彼女がお子様扱いされる所以である。
「今……」
「うん、ちゃんと拭いたよ? じゃあ、おやすみなさい」
ベリルは大変お眠で、頭ぐらぐら一歩手前だ。
「また明日ね」
手を小さく振って部屋を出る足取りは覚束ない。
バタン、と扉が閉まった。
「……え?」
残された男は混乱の極みの中にいた。
ついでに大演奏会も始まる。
今までの大演奏会よりも、もっともっと大演奏会だ。
何だ、さっきのは──とても柔いものが自分の硬い頬に触れたが、あれは?
「いや、分からん!」
ちょっと、もう一回してほしい。
「ベリル!!!」
そしたらきっと分かる。
──箍は外れてしまえば「あっ」と言う間である。
翌日のお出かけは中止になった。




