ブレット・グレインジャー
「今日こそは抱っこしてもらうからね」
嫁──ニコル・グレインジャーに、赤ん坊を渡されそうになったレイ・グレインジャーは、首を思い切り横に振った。
子供が生まれてから、レイはまともに抱っこなぞしていない。
なぜって……怖い。
いや、口が裂けてもそんな発言はしないが。
わが子こと──ブレット・グレインジャーは柔らか過ぎて、自分の強すぎる力で潰してしまいそうなのだ。
「大丈夫だよ、ほらほら」
世界一可愛い嫁の、世界一信用できない言葉に、レイはたじろいだ。
いまだかつて、こんな怖さは味わったことがない。
レイは、赤ん坊が怖い。
「やめろ。おいこら、聞け!」
煩い夫にもなんのその、母たるニコルはレイの腕の中に我が子を収める。
半年以上も許していたが、もうダメだ。いい加減にしろ。
「手は、こうだよ? うん、そう。上手だね」
「ニコ! 無理だ! 待て……どこ行くんだ、待て! 頼む!」
息子を抱っこしたレイからニコルは離れるが……夫はついてくる。
ニコルは、こんな慌てているレイを見るのは久しぶりだ。十五の時に、ニコルが誘拐されそうになった時以来である。
あの時の誘拐(未遂)犯を思い出し──やめた、思い出さなくていい。
「抱っこできてるし、無理じゃないよ」
「でも、潰しちまう」
「大丈夫。潰れない」
「……ニコ」
「大丈夫だってば。肩凝っちゃったから、少しだけ抱っこ代わってよ」
赤ん坊は重たいのだ。
そうでなくてもブレットはビッグベイビーなのに、ニコルの細い腕と肩はごりごりに凝っている。首も腰も痛い。
「じゃあ、肩揉んでやるよ」
「レイ、すぐエッチなことするからダメ」
「いいだろ別にしても。揉ませろ」
なんでダメなんだ? というような目を向けるレイ。
「ダーメ」
彼は父親になってもお猿さんである。
「やりてえ」
その直球過ぎる言い方はどうにかならないのだろうか。
「……ダメだってば!」
「『ダメ』ねえ……?」
「何、もう。そう言ってるでしょ」
「ふうん? つまり、嫌じゃねえってことだ」
その通りである。
ニコルも嫌いではない──というか好きだ。くっついていたいと思う。
だが如何せん、この男は体力お化けである。
疲れて何もできなくなってしまうので困るのだ。
レイの顔がニコルの顔に近づく。
「ま、待って、レイ……っ」
「いいから、黙ってろ」
ニコルはこのモスグリーンの瞳に逆らえない。
しかし──
「あっぶうう! あーあぶぅ! あぶーうぅ!」
夫婦の妙な雰囲気はブレットがぶち壊した。
最近、喃語を話す彼──今日も元気いっぱいのグレインジャー・ジュニアである。
「ニコ!?」
さっきのレイは幻のごとく消えた。
もはや、さっきの彼と今の彼が同一人物なのかは怪しい。
白昼夢かも知れない。きっとそうだ。
「……なに?」
「ブレットが泣いてる!」
レイが、ブレットの奇声に驚いて、ニコルに目で縋る。
「泣いてないよ。喋ってるの」
そんな夫に呆れる嫁。
「泣いてんじゃねえのか」
「むしろご機嫌だよ」
「お前、紛らわしいんだよ。ふざけんな」
腕の中のブレットにレイは文句を言う。
いきなり大きな声なんか上げるので勘違いしてしまった。
まったく、迷惑な赤ん坊だ。
ブレットはレイの文句に「だうーっ!」と言い返してきた。
紛らわしくない、とでも言いたいのだろうか。
生意気だ。
「レイの小ちゃい頃と同じってお義母様が言ってた。ご機嫌だと、『あぶあぶ』言うんだって。パパとお揃いなんだよね、ブレット?」
「あぶ!」
「嬉しいねえ?」
「あうう、あー!」
ニコルはちんまい手に自分の指を握らせながらブレットに笑いかける。
ニコルは出会った時から可愛くなかったレイも、赤ん坊時代は可愛かったのかも知れないと思った。
だって、この子はレイにそっくりなのに、こんなに可愛い。
「俺は、んなこと言わねえ」
「覚えてないだけだよ」
「言ってねえし」
「お義母様が言ってたもん」
「クソババアは嘘吐いてんだ」
「もう、またそんなこと言って……」
いい加減なことを言う男だ。
覚えている訳がないのに。
「……悪餓鬼レイ~」
「変な歌やめろ」
「悪童と呼ばれたレイ~」
「やめろって言ってんだろが」
即興の歌にレイが眉を吊り上げた。
しかし、そんな顔されたってニコルは怖くない。
「ブレット、パパの抱っこ上手かなあ?」
「あぶぅ、あー、ぶうぅ」
「へえ? そうなの?」
「あぶぶ、ぶぅう」
「うんうん、あぶあぶぅ?」
「あぶ!」
嫁と息子が会話をしている。
でもレイには何を話しているのか分からない。
「こいつ、なんて言ってんだ?」
「さあ?」
「……あっそう」
嫁も分かっていなかった。
眠ってしまった嫁の目の下の隈を指で撫でていると、ブレットが「あぶあぶ」言いだした。
「うるせえ」
いきなりご機嫌になったり、嵐のように泣き出したりする困った赤ん坊である。
「……ったく、お前のせいだぞ?」
ブレットのせいで、レイはニコルを抱けない。はっきり言って欲求不満だ。
「ぅ、ぶあー、あう」
ニコルが目を覚まさないよう、ブレットを抱き上げるとにっこりと笑顔を返され、レイの口角も自然に上がる。
「お前、ニコに似りゃあ良かったのになあ」
髪の色も、目の色も、親指の形も、顔の造りも、全部受け継いだブレットは、人々曰く『ミニチュア・レイ』だ。
「俺なんかに似ちまって……いや、似てねえな」
「だあ」
息子がレイの生き写しだと、悪友のナイジェルは大笑いしていたが……自分はこんな風に笑わない。
「やっぱり似てねえ」
この笑い方はニコルのものだ。
だから可愛く見えるのだ。
「だーう、うぅ」
にこにこ喃語を話す息子がレイに手を伸ばす。
何がしたいのかさっぱり分からない。
「ん? 何だよ、何言ってんのか分かんねえんだよ」
「ぷう、だっ、だあっ!」
子供特有の甘ったるい匂い、温かすぎる体温、ぐにゃぐにゃと柔らかい体にまだ不思議さは拭えない。
いつか、この小さな息子もレイのようなやんちゃ坊主になるのだろうか。
その時に、もしかしたら自分は生意気な息子を叱ったりするのだろうか。
そして反抗的な態度を取られ、大喧嘩をして、ぶん殴ったりぶん殴られたりするのだろうか。
現在、レイが父と酒を飲むように、レイがブレットとも酒を飲む日がやってくるのだろうか。
そんな未来を想像してみると、楽しいのかも知れない。
「……早くでかくなれよ、ブレット」
レイは自分でも信じられないくらい優しい声が出た。
「あぶぅ!」
レイの言葉に、息子は元気いっぱい返事をした。
──誰が何と言おうと、ブレットは可愛い嫁似だ。
レイは子供なんて煩いし、汚いし、大嫌いだった。
なのに最近では他人の子供ですら可愛く見えてしまう(ブレットが一番可愛いが)。
すっかり焼きが回ってしまった。
やんちゃもそろそろ卒業だろうか。
父も母も自分にこんな気持ちだったのか──いや、あの二人はそんな感じではなかった。
レイにとても厳しかった。でも孫にはメロメロだ。
まだ現役で『鬼神』と呼ばれている父なんてレイが見たことない顔でブレットをあやしているし、母はすぐに玩具を買ってニコルを困らせている。
もし、この小さな子供が将来何かに悩む時がきたら、「お前は皆から愛されて育った」と言ってやろう。
レイには命より大事な存在が、二つある。
これからは、それを守る為の人生になる。
──それは、面倒で、重くて、難解で、愛おしくて、最高なことだ。
レイ・グレインジャーは父親になった。




