妻への不満は……
「ただいま」
帝都にある赤い屋根の一軒家の玄関の扉を開けると、とたた……と軽い音が近付いてきた。
「パパぁ、おかえりなさぁい」
ナイジェルの今日の疲れが吹っ飛ぶ瞬間である。
「ただいま、アーティ」
抱っこして、というように精一杯手を伸ばしてくる様子に笑い声が出てしまう。
娘は、世界で一番可愛い。
「パパぁ」
「何だ?」
「きょうのごはん、なんだとおもう?」
にこーっと楽しそうに笑うアーティに、すぐに娘の好物を思い浮かべて予想立てる。
──ジャガイモのポタージュか、白身魚のソテーか、それとも食後のパウンドケーキだろうか……。
「分かった、キノコのサラダだな?」
敢えてアーティの嫌いなメニューを言うと、娘の可愛い顔にクシャッと皺が寄る。
「ちっがーう! おにくごろごろシチューだよぉ」
「あれ? パパの好きなやつだな」
「そぉだよ。きょうはね、アーティがおやさいあらったんだよぉ」
「ママのお手伝いして偉いな、アーティ」
えっへんと言うアーティを、高く上げてくるくる回ると「うきゃあ〜」とアーティが笑い声を上げた。
アーティは、外では人見知りだが、家ではお喋りだ。
「おかえりなさい、パパ。お出迎えできなくてごめんね」
エプロンで手を拭きながらリビングに続くドアから出てきた妻のベリルに「ただいま」と言ってキスをする。
「パパ、パパ、アーティにもちゅー」
何となく『おかえりのキス』はベリルにしてからアーティにする決まりになっている。
ぷくっと頬をこちらに向けてくるアーティにもキスをすると、お返しが返ってきた──唾液が付いたナイジェルの頬をベリルが笑いながら拭ってくれた。
「おひげチクチクするよぉ」
「ん~?」
きゃっきゃっと声を上げて喜ぶ娘は、笑顔全開で超絶可愛い。
オリバー家の、次の日が休みの夕食は少しだけ豪華になる──今日はナイジェルの好きなものばかりだ。
「いただきます」
目の前にあるのは独身時代から、ベリルの手料理の中でナイジェルが一番好きなシチューである。
肉が塊で入っていて、具沢山のシチューは食べ応えがあり、味のバリエーションも数種類ある。
ナイジェルはもともとは辛めの味付けが好きだったのだが、アーティが食事をするようになってからは食卓に並ぶのは甘口ばかりだ。
しかし、最近は甘口の味にも慣れて、今は甘口が好きな味付けになっているのだから不思議だ。
「おいち〜」
「美味しいね、頬っぺた落ちちゃうね」
「ママ、ママ、ほっぺ、おさえなきゃおちちゃうよぉ」
「わあ、大変! 押さえなくっちゃ!」
ベリルとアーティが、自分の頬が落ちないように押さえる──実際は落ちたりはしないのだが、これは美味しいものを食べた時のオリバー家の遊びだ。
ナイジェルは、母娘のお約束の掛け合いにほっこりしながらシチューを口に運ぶ。
ナイジェルの皿には肉が多く、アーティの皿の具は小さく切られているのを見る度、ベリルの気遣いを感じる。
本人はあまり量が食べられない体質なのに、結婚前からナイジェルの為に手間を掛けてくれることを有難いと思う。
仲間内で妻の話となれば、皆文句ばかり出るが(フロイド、エイダン、レイを除く)、ナイジェルに妻の不満は探しても見当たらない。
妻そっくりの可愛い娘まで生んでくれたベリルには感謝しかない。
明日は遠出して、レイに「ガキが喜ぶぞ」と言われた動物園に行く予定だ。
アーティは、動物園をずっと楽しみにしており、今夜の興奮はピークだ。
そして、ナイジェルが寝かし付けている最中には鳥が見たいと言って足をばたばたしたアーティはいつもよりもはしゃいでいた為か、ことん、と糸が切れたように突然眠ってしまった。
「あれ? アーティ、もう寝たの?」
娘の部屋を忍び足で出て、リビングに戻ると吃驚顔のベリルに迎えられた。
「ああ。なんか、いきなり寝た」
アーティに話すよりもぶっきらぼうな言い方になったナイジェルに、ベリルがお茶を淹れてくれる。
「今日、ずうっとはしゃいでたからね。今日も『パパと鳥さん見るんだー』ってご機嫌だったよ」
「寝る前にも同じこと言ってた」
「私も楽しみだなあ、動物園行くの初めてなんだ」
「そう言えば俺等で行ったこと無かったな」
「パパは行ったことあるの?」
「あるけど、ガキの頃だからあまり覚えてない」
「そっかあ」
──先程ベリルには不満が無いと思ったが、一つ訂正したい。
ベリルは、アーティが生まれてからナイジェルのことを『パパ』と呼ぶ……アーティがいる時はいいが、二人きりの時は名前で呼んでほしい。
フロイドが馬鹿みたいにこだわっていた『結婚しても名前呼び』に、今更ながら同意だ──当時、聞いた時は正直どうでもいいと思っていたが、今はフロイドに賛成である。
そして、つい先日二人の時は名前で呼んでほしいとやっとの思いで告げたのだ。
が、ベリルは今も『パパ』呼びだ。
不満である。
「ベリル」
「なあに、パパ」
「『パパ』?」
「……ナイジェル」
「よし」
「……なんか、久しぶりに名前呼んだからどきどきする……」
照れるベリルが可愛い。娘と同じ顔だが、種類が違う可愛さだ。
ナイジェルはベリルの性格や心根を好いているが、外見もかなり好みなので何年も経っても妻の顔に飽きる気がしない。
そして余談だが……童顔のベリルは子供を生んでからぐんと女性らしくなって独身時代よりも男に声を掛けられる回数が増えた。
妻が美しくなるのは嬉しいし、彼女が浮気なんてするとは思えないが、ナイジェルとしては複雑な気持ちである。
「たまには『ママ』じゃなくて、ただの『ベリル』に戻ってほしい」
「……うん」
こくりと頷くベリルに満足したナイジェルが、お茶を口に含んだその時──
「……じゃあ、今からただの『ベリル』になってもいい?」
「ぶふぉっ!」
──吹いた。
「わ、大丈夫!?」
「ごほっ、べ、ベリル……ごほ、さっきの」
「え?」
「『じゃあ』からの続き、もう一回言ってくれ……!」
さっきのは、つまりそういうことだろう?
「ナイジェルのエッチ」
「は? そうだけど。……もしかして知らなかったのか?」
一体自分のことを何だと思っているんだと、咳が止まったナイジェルがベリルを見ると、彼女はきょとんとした顔から一拍後に破顔した。
「ふふっ! ……知らなかったかも?」
「……それは大変だ」
──明日は早起きだが、娘は予定より早く就寝したし、今の妻は『ママ』ではなくただのベリルなので、何の問題もない。
昔は誘惑の『ゆ』の字も知らなかったというのに、時の流れは本当に偉大だ……と感動しながら、ナイジェルはベリルを抱き上げて寝室に向かった。




