オフィリア8
あくる日。オフィリアは剣術の師範を訪ねた。前日の非礼を詫びる為に。ところが、師範は頭を下げようとするオフィリアを制して、厳かに告げた。
「オフィリア殿下には、掛け稽古に臨んで頂きます」
相手は異母兄のレティアズだった。一年前の掛け稽古で、オフィリアはレティアズを完膚なきまでに叩きのめしている。それ以来の再戦だった。
対峙したとき、オフィリアの背筋に悪寒がはしった。原因は、師範の冷眼視か、或いは、レティアズのせせら笑いか。
いずれにせよ、オフィリアは剣を交える前に、自身の敗北を予感していたのだ。
三度打ち合ったところで、レティアズは力に飽かせて、オフィリアの剣を弾き飛ばした。努力を惜しまず会得した剣術は、単純な膂力に押しきられたのである。
オフィリアはびりびりと痺れる両手を見詰めた。レティアズの勝鬨が遠雷のようだ。
「勝ち誇る程のことでは御座いませぬぞ」
師範はレティアズを窘める。オフィリアは雷にうたれたようだった。
ーー勝ち誇る程のことじゃない? この私を打ち負かしたことは、勝ち誇る価値のないこと?
師範はその場に立ち尽くすオフィリアの前に、鞘に納めた剣を差し出した。
「真剣に御座います。どうぞ、お手にとってご覧になってください」
オフィリアはぎこちなくも、師範に言われた通りに剣を受け取ろうとした。頭が真っ白になってしまって、何も考えられない。
受け取った剣の重さを支えきれずによろめいて、はっと我にかえったときには、剣は師範によって取り上げられていた。
「これが、真剣の重さに御座います。レティアズ殿下が十歳におなり遊ばしましてから、真剣の稽古に励んで頂いております。初めは、今のオフィリア殿下のように、真剣の重さに振り回されておいででした。それが、このように逞しくおなり遊ばされ、今では真剣で形稽古をして頂いております」
「……どうして、私には真剣をとらせてくれなかったの? 努力が足りないならそう言って頂戴。私はまだ頑張れる。もっと頑張れる! それとも、私には剣の才がまるで無いから、教えるだけ無駄だとでも言うの? 違うでしょう? 筋が良いって、褒めてくれたわ! あなたはお世辞やおためごかしを言う人じゃないって、私は知っているのよ!」
「オフィリア殿下に足りないものは、努力でも才でもありませぬ。貴女様に足りないものは、力です」
「えっ?」
オフィリアはぽかんとした。思いがけない攻撃に虚を衝かれて、とっさには反撃できない人のように。立ち直る間もなく、師範は言葉を紡いだ。
「オフィリア殿下の剣戟は冴えがある。弛まぬ努力の賜物でしょう。しかし、貴女様はたおやかな姫君にあせられます。これから逞しくおなり遊ばす若君たちとは、そもそも、身体のつくりが異なるのです。女性の非力で剣をふるえば、大怪我を負いかねませぬ」
「そんなこと……! 怪我をしたって構わない! 大怪我をしても、あなたのせいにしたりしない。誰のせいにもしない! 私が非力だからいけないと言うのなら、身体を鍛えるわ! そうして、剣を持てるようになれば、私だって……!」
「オフィリア殿下、これは私奴の一存では御座いませぬ。陛下のご意向なのです。『いずれ異国へ嫁ぐ王女に、男の真似事をさせてくれるな』との仰せです」
オフィリアは、類のない、それ以上増しようのない茫然自失に陥った。苦しみと悲しみで、心臓が、いまにも胸のなかで破裂しそうになるのを感じた。
オフィリアは喘ぎの合間に、譫言のような言葉を絞り出す。
「そんな……嘘。きっと、何かの間違いよ。私は、異国に嫁いだりしない。だって、私は、女王になるんだから。努力すれば、努力して一番になれば、女王になれるんだから……!」
青褪めて震えるオフィリアを、レティアズは嘲笑う。
「それはお前の思い込みだよ、オフィリア。ヴァロワでは女子の王位継承権が認められているが、それは、王位継承者の数を確保する為だ。五人の王子を差し置いて、王妃腹とは言え王女であるお前が、王位に就ける訳がない!」
「いいえ、お義兄様! お父様は『時が満ちれば、我が子達の内、最も優れた者を世継とする』と仰ったのです! 世継ぎは男子でなければならぬと思し召しでしたら、そう仰るでしょう!」
「父上が明言を避けたのは、妃殿下とそのご実家に配慮されてのことだろう。お前が生まれるまで、世継ぎについて言及されなかったのも、そういうことだと聞いているぞ。お前が男であれば、話はまるで違ったのだろうがな!」
「いいえ! 世継となるのは、最も優れた者です。私の剣は、確かにお義兄様に敗れました。ですが、他の分野では? あらゆる学問において、私はお義兄様方より優れていると自負しておりますし、自明の理でしょう。王子であらせられるというだけで、多くの分野において私より劣っている御方が、世継ぎに選ばれる筈がありません。この私を差し置いて! そんな理不尽はゆるされないわ!」
「生意気な……! お前は生意気なんだ! 満足に剣もふるえない女の分際で、俺や義兄上たちより優れていると思い上がるなんて、生意気な女だ! 妃殿下の威光を笠に着て威張り散らして! 私や義兄上達よりも優れているなどと、思い上がりも甚だしい! 教師どもに贔屓されているだけだということがわからないのか! 愚かな女だ!」
「愚かなのは、お義兄様の方です! 私が一流の教師に教えを乞うことが出きるのは、仰る通り、お母様のおかげだと思います。ですが、私が努力しなければ、一流の教師にご教授頂いたところで、宝の持ち腐れでしょう。真剣で形稽古をなさるお義兄様が、私を打ち負かすときには、形を守らず力に飽かせたように!」
「オフィリア殿下」
師範の冷眼に諫められ、オフィリアは自制を失い、醜態を晒したことに気付く。恥辱のあまり紅潮する頬を見られたくなくて、俯きそうになるけれど、これ以上、無様な真似はしたくない。オフィリアはきつく唇を噛み、師範の鉄仮面を真正面から見詰める。師範もまた、オフィリアを真っ直ぐに見詰めていた。
「掛け稽古に取り組まれる前に、お諌めするべきでした。いえ、もっと早くに。本来ならば、稽古場にお招きするべきではなかった。面目次第も御座いませぬ。妃殿下には私から……」
「やめて!」
オフィリアは恥も外聞もなく叫んでいた。瞠目する師範に駆け寄り、眼差しで縋るように、師範を見上げる。
「お願い、お母様には言わないで……!」
オフィリアは懇願した。オフィリアを見下ろす師範の瞳に過る憐憫や、野次馬から投げ掛けられる嘲笑から、屈辱を感じとる余裕は無かった。
ーー陛下が私を異国に嫁がせると仰ったなんて……お母様のお耳には入れられない!
王妃にはオフィリアの他に子がいない。オフィリアが女王になれなければ、王妃は国母になれない。
ーーそんなの、絶対にだめ!
オフィリアの懇願に対する、師範の返答は素っ気ないものだった。
「では、私からは申し上げませぬ。ただし、今後、稽古場にはお招き致しませぬ故、そのおつもりで」
師範は一礼すると、オフィリアに背を向けて、稽古を始めるよう、他のこどもたちに号令をかける。オフィリアはその逞しく大きな背を凝視した。食い下がりたかった。けれど、オフィリアにはもう二度と、師範を振り向かせることは出来ない。
オフィリアは、師範が与えてくれた最後の好機を逃してしまったのだから。
ーー私は敗けた。形も守らない力任せの剣に敵わなかった。私は……弱いんだ。
オフィリアは自分の両手を見詰める。胼胝の出来た両手は、オフィリアの自慢だった。つかつかと近寄ってきたレティアズは、オフィリアの両手を一瞥し、鼻先で笑った。
「汚い手だな」