オフィリア7
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ミトラシュと共に過ごすようになって、一年。十歳になったオフィリアの剣術の腕前は伸び悩んでいた。
同世代の誰よりも熱心に稽古に励むオフィリアは模範生として、師範からも一目置かれる存在だった。ただし、それは形稽古に限る。いざ掛かり稽古となると、オフィリアは思うように剣をふるえなかった。格下と侮っていた相手に苦戦を強いられることもしばしばあり、オフィリアは焦燥に駈られていた。
稽古の時間を増やしたいと師範に頼み込むも、すげなく断られ、焦らず基本に忠実に稽古に励むようにと窘められてしまう。
「上達しないなら、その分、さらに努力しなきゃいけないのに、どうして!?」
オフィリアは師範に食って掛かったが、師範は動じなかった。
「お手を」
脈絡のない師範の要求を訝しみながらも、オフィリアは両手を差し出した。
オフィリアの掌には、豆が出来ては潰れることを繰り返し、胼胝が残っている。不断の努力の証が刻まれたその手を、オフィリアは密かに誇らしく思っていた。
ところが、この手を見て、師範は顔をしかめた。
「たおやかな姫君のお手では御座いませぬ」
「私は気にしない」
「貴女様のお心懸かりにならずとも、将来の夫君のお心懸かりとなりましょう」
師範の諫言により、オフィリアの心を波打たせる苛立ちは、荒波のような激昂に変わる。
「余計な世話焼きをするな! 私は殿方の庇護なくして生きられぬような、情けない女ではない!」
オフィリアは師範を一喝して、憤然と稽古場を去った。
教えを乞う身として、とんでもない無礼を働いてしまった。後悔も反省もしているけれど、皆に白い目でじろじろ見られながら、師範に頭を下げるのは、王妃腹の王女としての矜持が許さなかった。
オフィリアは、ミトラシュの許へ足繁く通っている。その日の真夜中も、オフィリアはミトラシュを訪ねた。
ミトラシュは相変わらず、口を利かず、字を記さない。それでも、オフィリアの膝をぺちぺちと叩いて膝枕をしてとねだったり、腕に頭をぐりぐりと押し付けて頭を撫でてとねだったりして、意思表示をするようになった。
オフィリアはミトラシュに、その日の出来事や習学した内容を、復習を兼ねて話して聞かせた。ミトラシュには姉の不様を知られたくないから、包み隠さず全てを打ち明けた訳ではないけれど。
この頃には、童話だけではなく、図鑑や歴史書、教本なども読み聞かせていた。
「今日は、クロディアス王の伝記を読破したわ。クロディアス王はヴァロワの中興の祖よ。ヴァロワ百五十年五十代の歴史の中で、最高の名君とされる御方なの。わずか五年の在位の間に、クロディアス王ほど偉大な業績をあげた統治者は他にいないわ。クロディアス王の治世では、ヴァロワはあまねく光輝き、喜びに満ち溢れ、飢える者はどこにもいなかったと伝えられているの。公正で慈悲深く献身的な、民の理想の王であらせられ、多くの民に愛されていらしたそうよ。最期は人喰いに殺されてしまわれたけれど。今からちょうど百年前のことよ。人喰いの大群の襲撃から民を守るために、兵を率いて勇敢に戦ってくださったのですって。徳の高い御方だもの、その御霊は今も天国にあって、民の安寧を願っていてくださるのでしょうね」
膝にのせたクロディアス王の伝記の頁をパラパラと捲る。隣に座るミトラシュは、オフィリアの手許を覗き込んでいるけれど、文字列を目で追っているのではなくて、オフィリアの指の動きを目で追っているらしい。オフィリアの話に耳を傾けているようだけれど、内容を理解しているかどうかはわからない。
「私も、クロディアス王のような名君になりたいけれど」
オフィリアは王妃の教えを反芻する。呪文を唱えるように呟いた。
「公平無私でありなさい。好悪に偏るべきではありません」
「万事について、惑溺して度を過ごすことのないように」
「喜怒を慎みなさい。表情や態度に出してはなりません」
「愛憎をふりまわしてはなりません」
「人々の大義のため、為すべきことを為すのです」
オフィリアは溜め息をついた。激情に呑まれ、醜態を衆目に晒した自身への失望が、胸の内側をじりじりと焼いている。
「私はダメかもしれない。皆に慕われる、非の打ち所の無い人格者になんて、なれそうにないわ。だって、私は嫌われ者のオフィリアだもの。善い王様は、民や臣下に慕われなければならないのに」
女王になる為、日々の研鑽を怠ったことはない。しかし、努力を重ねれば、オフィリアもクロディアス王のような「慈悲深く献身的な王」になれるのだろうか。自問自答すると、つい弱気になってしまう。
--だって、善き王は皆に慕われるもの
項垂れるオフィリアの頭に、ミトラシュが手を置いた。目を丸くするオフィリアの頭を、あたたかく小さな手がよしよしと撫でる。オフィリアは胸がいっぱいになって、ミトラシュをぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう、ミトラシュ。ミトラシュは優しい子ね。大好きよ」
オフィリアはミトラシュの髪をそっと撫でた。ミトラシュといると、オフィリアは優しくなれる気がした。穏やかに凪いだ心で、可哀想な弟に、惜しみ無く愛情を注いであげられる。そして、オフィリアが愛情を注いだ分、弟も愛情を返してくれる。この小部屋の中でだけ、得られる安寧だった。
「ミトラシュ、私ね、あなたとここでこうしていると、心が安らぐの。この閉ざされた小部屋は、私とミトラシュ、二人きりの世界。ずっと、この世界に閉じ籠っていられたら、どんなに楽になるかしら。王妃腹の王女でなければ、私は絶え間のない焦りや怒りに心を苛まれることなく、ごく当たり前に、弟を可愛がる、優しい姉でいられるかも」
王妃の期待に応えたくて、脇目もふらずに駆け抜ける日々。眦を決して、行く手を遮る者を容赦なく叩きのめす。人に後ろ指をさされ、迷ったとしても、立ち止まることは許されない。誰もが皆、オフィリアを嫌っている。立ち止まれば、すかさず、誰かに足をすくわれてしまう。
そういう生き方を選んだのは、オフィリア自身だった。他にいくらでもやりようがあったのに、そうするのが性に合っているからと、孤高を持する道を突き進んだ。
それでも時々、それを苦しいと感じることがある。きっかけは、たぶん、ミトラシュとの出会いだった。自分を慕ってくれる存在を得て、初めて、オフィリアは孤独の苦しみに気付いたのだと思う。
「……なんて、私らしくないか」
オフィリアは苦笑した。頭をもたげ、オフィリアの瞳の奥を覗き込むミトラシュの頭を抱え、ふわふわの髪を撫でた。
--弱気になるなんて、私らしくない。もっと、背筋をしゃんと伸ばして、毅然としていなきゃ。お母様みたいに。
王妃と言葉を交わす機会は限られているけれど、気高く聡明な母はオフィリアの憧れであり誇りである。
オフィリアは自身の頬を打って気合いを入れる。すかさず、ミトラシュがひりひりする頬に手をさしのべてきた。羽で触れるように撫でられるのが擽ったくて、オフィリアは身を捩って笑った。