オフィリア2
それでも、オフィリアは孤独ではなかった。
王の居殿と対を為す王妃の居殿は、王宮のなかでも特に豪奢な一角であり、オフィリアの寝室もそこにある。その日、為すべきことを為した後、王宮が眠り込んだ頃を見計らい、オフィリアは寝室を抜け出す。
きょろきょろと周囲を見回して、息を殺して、忍び足で。オフィリアは王妃の居殿の片隅にある小部屋へ向かう。鍵穴に鍵をさして回し、蝶番の軋む音を立てないように、少しだけ開いた扉の隙間に身体を滑り込ませ、後ろ手でそっと扉を閉める。
格子に切り分けられた月光が、簡素な寝台に腰掛ける少年の姿を照らし出す。小さな背を覆う、赤銅色の頭髪をふわりと揺らして、少年が振り返った。深紅の瞳がオフィリアを捉える。白皙の美貌に表情はない。
使用人たちは、この無表情を恐れている。まるで魂の無い人形のようだ、と。オフィリアにしてみれば、使用人達の怯えは不可解だった。少年の表情を、完全に無垢な赤子のそれだと、オフィリアは思うから。
オフィリアはぼんやりとする少年に微笑みかける。目一杯の親愛の情を込めて。
「ミトラシュ、ご機嫌いかが? 眠らずに、姉様が来るのを待っていてくれたのね。よかった! 今日はね、ミトラシュにお土産があるのよ。とっておきなの、きっと気に入るわ」
部屋にいるのはオフィリアと、オフィリアがミトラシュと呼ぶ少年の二人だけ。
ミトラシュはうんともすんとも言わない。まんじりとオフィリアを見詰め、寝台をぽんぽんと叩く。それが「隣に座って」と言う意思表示だと心得ているオフィリアは、にこにこしてミトラシュの隣に腰掛けた。
「今日は、王妃様のお茶会にお呼ばれしたの。いつもの場所、いつもの皆様、いつものお喋り。とっても退屈よ。時間がもったいないし。でもね、悪いことばかりじゃなくてね。美味しいお菓子を振る舞ってくださるの。ほら、これ。ミトラシュにもお裾分け。皆様の目を盗んで、こっそり、持ち帰って来ちゃった。ミトラシュにも食べさせてあげたくて。さぁ、召し上がれ!」
オフィリアはハンカチに包んだ赤すぐりのタルトをミトラシュへ差し出した。バターと蜂蜜の甘い香りが鼻先に漂っても、ミトラシュはタルトではなく、オフィリアを凝視している。オフィリアはにっこり笑って、ナパージュを纏ってキラキラ光る赤すぐりを一粒、摘まみ上げた。
「宝石みたいに綺麗でしょう。これ、食べられるのよ」
そう言って、赤すぐりを自身の口に運ぶ。手本を見せたつもりだった。
オフィリアが赤すぐりを咀嚼する間、ミトラシュは食い入るようにオフィリアの口許を見詰めている。しかし、タルトに手を伸ばそうとはしない。オフィリアが赤すぐりを嚥下するのを見届けると、ぱちぱちと瞬きをして、オフィリアの瞳を見据えた。そのまま人形のようにぴたりと静止してしまう。
オフィリアは小首を傾げた。
「これも、食べられない?」
ミトラシュはオフィリアの問いかけに応えず、ぼんやりするばかり。そう、と呟いて、オフィリアは肩を落とした。
これまで、色々な食べ物を試してみたけれど、ミトラシュがオフィリアに与えられる食べ物を口にしたことはない。ミトラシュが口にするのは、一日に一度の頻度で小部屋に投げ入れられる、ぶつ切りの生肉だけ。
―― 可哀想なミトラシュ
オフィリアは、口許を血塗れにして肉塊を貪り食うミトラシュが不憫でならなかった。
父王は愛妾たちにそれぞれの離宮を与えており、庶子たちは生母の許で養育されている。第六王子であるミトラシュは、生母が産褥熱で命を落とした為、王妃の許で養育されることになった。
ミトラシュは王妃の居殿の片隅に幽閉されている。教育を受けるどころか最低限の躾さえ疎かにされ、死なない程度に放置されている。
一年前まで、オフィリアはミトラシュの存在すら知らなかった。