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眠れる理想の怪物  作者: 銀ねも
目覚め
23/27

ミトラシュ11

 

 オフィリアは彼に抱きついた。彼女の生爪を剥いで喰らった怪物をひしと掻き抱く。


 頬をオフィリアの胸にぴったりとくっつけて、彼は硬直した。オフィリアの心臓はその胸の内で、臆病な仔兎のように跳ね回っている。


 ーー当然、怯えている。末端とは言え、身体を喰われたんだ。怯えない方がおかしい。だけど、ミトラシュを恐れ、怯えているのに、ミトラシュを抱きしめるのは、もっとおかしい?


 上体を起こしたオフィリアのなすがまま、彼はオフィリアの胸に抱き寄せられる。オフィリアは腰を捻って、衛兵の凝視から彼を隠した。彼をぎゅうっと抱き締めて、オフィリアは声を張り上げた。


「この子は悪くないわ! 今のだって、私に襲いかかったのだって、この子は悪くない! この子はずっと、まともな食事を与えられず、生肉を食べることを強いられてきたのよ! まるで獣のように! この子は『人喰い王子』なんかじゃない! この子は可哀想な王子、私の弟なの! よろしくて? この子を傷つけることは、このオフィリア・ソル・ベンシィグースが赦しません! さがりなさい!」


 傷付き怯えた少女が獰猛な怪物を庇い、屈強な兵士に立ち向かう。その悲壮な姿が胸にせまるのだろうか。或いは王家の威光なのか。いずれにせよ、衛兵は途方に暮れて立ち尽くしている。


 オフィリアはすっくと立ち上がると、血塗れの右手で彼の右手をとった。オフィリアは彼の手を引いて、来た道を引き返す。


 ーーどういうつもりだ? 今度はなんだ? 気紛れ? 自己満足? 偽善?


 この期に及んで、オフィリアはミトラシュを愛している、なんて、儚い希望にすがったりしないけれど。それでも、ミトラシュはオフィリアの手を振り払えなかった。やはりミトラシュは、いつまでもこうして、オフィリアと手を繋いでいたいと願ってしまう。あまりの愚かしさに、吐き気がするけれど、心ばかりはどうしようもない。


 何処で何をするべきなのかとまごまごする衛兵の傍を通り過ぎて、彼が蹴破った扉を踏み越えて、オフィリアはミトラシュを彼の世界に連れ戻す。


 オフィリアが振り返り、オフィリアとミトラシュとは目を合わせる。オフィリアはミトラシュを見詰めたまま、寝台を指差した。


「そこにお掛けなさい」

「そうしたら、姉様、ミトラシュの隣に座ってくれる?」


 ミトラシュがオフィリアの手をぎゅっと握ると、オフィリアは拒絶の感情をあからさまにした。


「黙って。私の言う通りにして」


 ミトラシュの甘えはぴしゃりとはねつけられた。しかし、ミトラシュはしつこく食い下がる。おめおめと引き下がるわけにはいかない。


「ミトラシュが姉様の言う通りにしたら、姉様はミトラシュの手を握っていてくれる? ミトラシュと一緒にいてくれる? それとも、指を食べさせてくれるの?」


 オフィリアは眉を寄せる。その瞳の色、震える吐息、強張る身体は、オフィリアが戦慄したことを、如実に物語っていた。


「聞き分けて頂戴。これ以上、乱暴をするつもりなら、もう庇ってあげられないわ。今ならまだ、無かったことにしてあげられる。ねぇ、ミトラシュ。あなたは良い子でしょう?」

「ミトラシュは『良い子』なんかじゃない」


 ミトラシュは千切って投げるように言った。抱き寄せられては突き放されて、それを短期間に繰り返されて、ミトラシュは混乱し、苛立っていた。


「姉様の言う『良い子』は、姉様にとって『都合の良い子』のことだ」


 ミトラシュが断言すると、オフィリアは骨まで達する傷口に触れられたかのように飛び上がって悲鳴を上げた。


「そんな! 私、そんなつもりは」


 オフィリアの叫びが途切れる。オフィリアの表情が消えた。手のひらで大事に囲まれ、風から護られてきた小さな火が吹き消されてしまったかのように。


「そうね。そうかもしれない」


 ミトラシュの手からオフィリアの手がすり抜ける。ミトラシュは血塗れの掌をじっと見詰めた。


「姉様は、姉様とミトラシュの、姉弟の縁を切りたい?」

「ええ」

「ミトラシュ、姉様の邪魔をした?」


 オフィリアは黙って凝っとしている。肯定も否定もしない。ミトラシュはオフィリアの目を真っ直ぐに見据えた。


「ミトラシュなんか、死ねば良いってことか」


 オフィリアの顔は青ざめ、血の気のなくなった唇がふるえていた。爪の剥がれた指から血がボタボタと床に滴り落ちている。ミトラシュは小さな血溜まりを眺め、ぽつりと呟く。


「だったら、どうして、ミトラシュを庇ってくれた?」


 オフィリアはミトラシュの前に跪くと、ミトラシュの膝に両手をのせた。


「あのね、ミトラシュ。私、あなたには、生きていて欲しいの。生きて、そうして」


 その続きは声にならず、オフィリアは口をぱくぱくと動かしただけだった。ミトラシュの膝の上でオフィリアは拳を握りしめる。ミトラシュはその手を握ろうしたけれど、オフィリアはすっと手を引いてしまった。オフィリアはミトラシュから目を逸らし、言った。


「あなたが私を傷付けた罪に問われ処刑されたら、あなたの死の原因は私ということになるでしょう。そんなの嫌。誰かの死の責任を負わされるなんて、寝覚めが悪くてならないもの」

「それだけ?」

「他に何があると言うの? あなたは、私の指を喰い千切ろうとしたのに」


 オフィリアとミトラシュの間に沈黙が降り積もる。それはミトラシュの心の柔らかい部分にずっしりとのしかかり、おしつぶした。


 オフィリアはすっくと立ち上がり、ミトラシュに背を向けた。衛兵を呼びつけ、いくつか命令をする。何処からともなく現れたオフィリア付きの侍女たちがオフィリアを取り囲み、何処かへ連れて行った。


 やがて、衛兵の集団がぞろぞろとやって来て、ミトラシュを閉じこめる算段をする。衛兵達がせわしなく行き来するのを、ミトラシュはわずかに目を開き、眺めた。ぼんやりと、成り行きに身を任せた。衛兵たちは寄せては引く波のように、どっと押し寄せて、さっと引き上げた。ミトラシュはひとりぼっちで、鎖に繋がれ、閉ざされた世界に閉じこめられた。


 これまでと同じようで、これまでとはまるで違う。オフィリアはもう二度と、ミトラシュの許に戻らないのだから。


 静謐に耳を塞ぎ、鼓動に耳を傾ける。鼓動はミトラシュを嘲る。


 ーー母は、人喰いの息子を呪って死んだ。生きとし生けるものは皆、その命を脅かす存在を忌避する。オフィリアの裏切りを赦さないと心に決めたなら、決して逃がしてはならなかった。せめて、オフィリアに愛される弟であれば、まだ望みはあっただろうに。もはや『ミトラシュ』はオフィリアにとって、おぞましい人喰いの怪物でしかない。


「そうかもしれない。でも、それがどうした?」


 ミトラシュは言った。ちょうど、格子窓から肉塊を投げ込んだ衛兵が怪訝な表情をしてミトラシュを凝視していたけれど、少しも気にならなかったので、ミトラシュは話しを続けた。


「ミトラシュが大切な弟であろうと、おぞましい怪物であろうと、姉様はミトラシュを捨てる。どうせこの想いは、姉様に届かない。だったら、どっちでも同じことだ」


 ーー諦めるのか? 姉様の言う通り、ここでずっとこうしているのか? 『ミトラシュ』は姉様の言い付けをよく守る『良い子』だから?


「諦めない」


 ミトラシュは言った。格子窓からこちらを覗いていた衛兵が、息を呑む。ミトラシュは掌を射光に翳した。唾液をたっぷりと纏わせた舌を突き出して、掌を嘗める。乾いた血糊を溶かして嘗めとる。


「まだだ。まだまだ、足りない」


 抱き締めて、四肢を捥いで、腸を裂いて。血を啜って、肉をかみしめて、臓腑をしゃぶって、骨を噛み砕いて。泣かせて、悲鳴をあげさせて、喘がせて。


「したいことが、まだまだ、たくさんあるんだ」


 ミトラシュは哄笑した。鼓動は高鳴った。衛兵をがわっとおめいて、尻餅をついた。そんなことはどうでもよかった。


 掌についた血糊をすっかり嘗めとってしまうと、ミトラシュは床を這う。床に染み付いたオフィリアの血痕に、恭しく口付けた。


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