ミトラシュ10
怒った雄牛のような咆哮だった。オフィリアが発する音色と鼓動の他は雑音でしかないのだけれど、彼に向けられた怒号を無視することは出来ない。肩越しに振り返る。
怒号の主が彼等の方へ駆け寄って来るのを、彼は黙視した。夜回りの衛兵だろう。まったく文句のつけようもないくらい、規定通りの身なりをしている。
衛兵は彼の部屋の前を通り過ぎるとき、開け放たれた扉を見た。次に彼を見た。彼が見返すと、衛兵の顔がだんだん青ざめていく。たしかに見覚えがあるようだ。衛兵の足がもつれるのを眺めていると、胸の内に響くような軽侮の念が湧いてくる。
ーー簡単なものさ。怖じ気づく人間の息の根を止めるくらいのことは。
まだ幼い彼にも、造作もないことだった。そこまではいい。問題は衛兵を仕留めた後のこと。間も無く、騒ぎを聞き付けた衛兵達が集まってくる。武装した兵士に包囲されては、今の彼はひとたまりもなく制圧されるだろう。そうして、オフィリアを奪われてしまう。
オフィリアを喰い殺すには一瞬で事足りるけれど、それではつまらない。
オフィリアはミトラシュに優しく接してくれた。ミトラシュを愛してくれているからだと信じていたけれど、そうではなかった。オフィリアはミトラシュを愛していなかった。愛しているなら、忘れるなんてことは出来ない。出会ってから今までずっと、オフィリアは只管、ミトラシュを憐れみ、見下していたのだ。
人喰い王子と謗られ、忌み嫌われ、幽閉された、口の利けない異母弟。オフィリアは独り善がりの憐憫と優越感をもって傲慢なこと極まりない施しをした。
ミトラシュが愛した笑顔は、オフィリアの偽善の象徴に過ぎなかった。オフィリアが閉じ籠っていたいと願ったのは、愛し合うふたりの世界ではなく、自己陶酔の世界だった。
オフィリアはミトラシュに夢を見せた。オフィリアも一緒に夢を見たのかもしれない。しかしオフィリアは早々に飽きて、ミトラシュを置き去りにして夢から醒めた。目覚めたら夢を忘れてしまうと言う。泡沫の夢だから、オフィリアがミトラシュに与えたもの全てが、無意味で無価値ながらくたなのだ。
ーーがらくたならば、壊して、粉々にして、無茶苦茶にして、ぼろぼろにしてしまえ
まだ寝惚けているオフィリアが夢を覚えているうちに。
オフィリアの指をしゃぶり、剥がれかけた爪を喰い千切る。苦痛に顔をしかめるオフィリアを見つめて、彼は目を細める。
一生に一度の享楽だ。愛しく憎らしいオフィリアの美味をじっくりと堪能したい。その為には、オフィリアを捕え、守りながら、衛兵達から逃げきらなければならない。
彼は顔を動かさずあたりを見回した。衛兵は彼の部屋の前で立ち尽くしている。蒼白の月光が照らし出す人喰いの補食を目の当たりにして、身動ぎも出来ないようだ。
ーー逃げるなら今のうちだろう。すぐそこにある、明かり取りの窓。あそこから外に出られる。宮殿は三階建てだ。王妃の居殿は二階。ならばここは二階か?
だとしたら、オフィリアを抱えて飛び降りても、安全に着地することが出来るだろう。
そう算段をして、窓を突き破ろうとした、ちょうどその時。それまでおとなしくしていたオフィリアが、突然、叫んだ。
「待って! 違う! この子は違うの!」




