ミトラシュ8
第一話として『ふたりの行方 怪物』を割り込み投稿致しました。
彼は生まれて初めて、彼の世界の外へ足を踏み出した。
本当は、ずっとこのまま世界に閉じ籠っていたかったけれど。オフィリアに捨てられた瞬間に、彼の世界は瓦解してしまったから。もう、留まってはいられない。
足の裏に氷のような床の冷たさが滲みわたる。
彼はすぐにオフィリアを見つけた。仄かな月光を帯びた群青の人影が、廊下を突き当って、右へ折れようとしている。肩をいからせて歩く後ろ姿から、研ぎおろされて来る拒絶の気配が、鋭い針となって彼に突き刺さる。
オフィリアは振り返る。険のある顔、強い眼差し。彼はその表情から、驚愕、焦燥、恐怖を見出だした。ミトラシュへの愛情は欠片も見出せない。彼は落胆し、失望する。
心を刺し貫く痛みは、悲しみに、そして怒りへ変わった。
彼は駆け出した。夢中で駆けた。あっという間に、オフィリアのうしろから追いついた。オフィリアは逃げられない。彼に狙われた獲物は立ち竦み、動けないまま捕食される。
彼はオフィリアにとびかかり、オフィリアを仰向けに押し倒した。無意識のうちに、オフィリアの後頭と背中に手を添えていたので、オフィリアは苦痛を感じなかったようだ。彼の肉体の反射は、オフィリアを嬲り殺しにしようという彼の意思を裏切った。
オフィリアは彼の腕のなかで自失している。その表情は、オフィリアが『ミトラシュ』から思いがけない触れ合いを仕掛けられた時に見せた表情だった。
いつも通りなら。それから、花咲くように笑ってくれる。嬉しい、大好き、あなたは私の大切な弟。そう言って、抱きしめてくれる。これまでは、確かにそうだった。
ーー愛してくれたんだ。愛してくれた。あんなに、愛してくれたのに。
オフィリアはミトラシュの心を生み出した。オフィリアだけがミトラシュの存在を知っていた。オフィリアから与えられる優しさだけがミトラシュを形成していた。
ーーミトラシュから逃げようとする姉様は嫌いだ。でも、優しい姉様は好き。大好き。これまでも、これからも、ずっと。
オフィリアを喰らえば、オフィリアは彼の血肉となる。オフィリアとひとつになる。言葉にすると甘美に響くけれど。血肉になるということは、オフィリアは彼の腹の中で、どろどろに解けて消えて失くなるということ。
オフィリアが彼の血肉になれば、オフィリアはミトラシュから離れられなくなるし、怒ったり嘘を吐いたりすることもなくなる。そして、ミトラシュに微笑みかけたり、触れたり、大好きと伝えることもなくなる。
過去の幸福に寄り添っても、限りある思い出はやがて色褪せ朽ち果てるだろう。彼はもう、母の味を思い出せない。
ーー姉様を喰い殺したい。姉様なんか大嫌い。でも、喰い殺したくない。姉様が大好き。
彼は母を喰い殺して生まれた怪物だった。しかし、オフィリアと出会い、生まれ変わった。オフィリアと触れ合う度に、どんどん変わってゆく。
オフィリアを喰い殺したい。オフィリアはミトラシュの期待を裏切った。怒りを露にするオフィリアは、彼が忌み嫌う醜悪な人間そのものだった。
オフィリアを喰い殺したくない。オフィリアだけは特別な存在だ。オフィリアだけがミトラシュに優しくしてくれる。ミトラシュを愛してくれる。
彼は混乱した。相反する想いが同じ強さで絶叫する。自分自身がわからない。
彼が苦悶の呻きをあげたとき、それまで茫然としていたオフィリアが、はっと目を見開く。怯え震える手を、躊躇いなく彼へと伸ばした。
オフィリアの指先が彼の首に嵌められた首枷に触れる。彼はその手を咄嗟に振り払いそうになって、思い止まった。銀は彼の身体を蝕むけれど、人の身体には害を為さないことを思い出したのだ。
「ミトラシュ、あなたの首、どうしてしまったの!? こんなに爛れて……! ここも、ここも、酷い火傷だわ! 嗚呼、なんてこと……どうしてこんなことに!」
オフィリアの柔らかい指の腹が首枷の内側に擦れた部分に触れた。首枷に触れる皮膚は慢性的に焼け爛れており、先程、鎖を引き千切った際に皮膚が剥がれていた。傷口は石榴のようにグズグズになり、肉がはじけている。
彼は肉体の苦痛には無頓着だった。銀の焔に焼かれる苦痛を知る彼にとって、この程度は苦痛ではない。
しかし、オフィリアの目から見れば大怪我なのだろう。彼の脱走も暴力も度外視して、彼を心配している。
ミトラシュのことを捨てようとしたのに、彼に触れる手は優しい。
ミトラシュの心は愛憎によって引き裂かれた。
鼓動が高鳴る。胸の内で暴れ狂う。
ーーオフィリアは、私の病だ。私を支配しようとする病。私を蝕んで、いつか死に至らしめる病なのだ。オフィリアは私を狂わせる。
首の火傷を慰撫するオフィリアの手に手を重ねる。今度は振り払われなかった。彼はオフィリアの手を口許に誘う。
ーー姉様、それでも、あなたが欲しい
オフィリアの瞳にうつる、よく揃った彼の歯は、ちょうど半開きの石榴の花弁の間に露の玉が輝いているようだった。
「姉さまの指、頂戴? 姉さまを食べてみたい」
ーーそれはきっと貴女が好んで口にする愛らしいお菓子より、もっとずっと、甘くて美味しいから




