ミトラシュ7
オフィリアは甲走った声で叫んだ。
「冗談じゃない! 虫酸が走る! 私は、野蛮人の王に隷属する為に、これまでずっと、必死に努力してきた訳じゃない! 私は女王になる為に生まれ、生きてきた! それなのに、どいつもこいつも、私の邪魔をする! 私は女王になるの、必ず! 誰にも私の邪魔はさせない! 邪魔をする者には容赦しない!」
ミトラシュはオフィリアの怒気に雁字搦めに捕らわれた。ミトラシュにはオフィリアの怒りの理由がわからない。しかし、突然の憤怒の矛先は、ミトラシュにも向けられているようだった。
ーー姉様はお日様みたいだ。きらきら眩しくて、ぽかぽか暖かくて、ミトラシュを愛してくれる。姉様は優しい。優しく微笑みかけてくれる。優しく語りかけてくれる。優しく髪を撫でて、抱きしめてくれる。お日様みたいな、優しい姉様。姉様は特別なひとだ。人喰いの怪物を受け容れてくれる。全ての人々がミトラシュを恐れ、抹殺しようとしても、姉様だけはミトラシュを愛してくれる筈。だって、姉様は特別なひとだから。弱く卑しく淫らで不道徳な大衆とは違うから。
心臓が鼓動を打つ。けたたましい嘲笑のように鳴り響く。
ーー私は清く正しく、高潔だった。私は穢れを退けて生きてきた。それなのに、大衆は私が『人間』ではないからと、ただそれだけの理由で、私を裏切った。お門違いの憎悪を掻き立て、理不尽な怒りをぶつけてきた。『人間』とはそういうものだ。この娘も所詮は同じ穴の狢だ。ついに化けの皮が剥がれたのだ。
ーー違う、そうじゃない。姉様は特別だ。姉様だけは違うんだ。
オフィリアへと伸ばした手は、オフィリアには届かない。かじかむ指の先で、オフィリアは跳び退さるようにして身を翻す。
オフィリアが行ってしまう。
ーー待って、姉様。ミトラシュを置いて行かないで。
ミトラシュの懇願は言葉にならない。激しい鼓動に締め付けられる喉から、ひゅうひゅうと木枯らしが吹きつけるような音をたてるだけ。しかし苦悶の喘鳴は、オフィリアの耳に届いたようだった。
オフィリアは扉の前で立ち止まる。肩越しに振り返るオフィリアの顔には、ミトラシュを戦慄させた怒りの残穢は見られない。優しい微笑が良く似合うオフィリアの顔には、自嘲が深く刻まれていた。
「お願い、ミトラシュ。私があなたの優しい姉様でいられるうちに、お別れをさせて。このままじゃ私、思うようにならないことを何もかも、あなたのせいにしてしまいそう。あなたと会っていたから、陛下は私を見限ったのだとか、鍛練を疎かにしてしまったのだとか。そんな風に、考えたくないのに、考えてしまうの。どうしても。……私って、本当に身勝手で、ろくでもない……最悪の姉だわ。あなたに恨まれても、呪われても、仕方がないと思う」
オフィリアは扉を開けた。生じた隙間に滑り込む。二人の世界の外側に立つ。扉が閉ざされる直前、オフィリアはミトラシュに別れを告げた。
「さようなら、ミトラシュ。私はあなたのことを忘れるから、あなたも私のことは忘れて。忘れられないのなら、嫌ってくれて構わないわ」
扉は閉ざされた。施錠の音が、ミトラシュの世界を揺るがせた。
ーーわ、わすれ……わす、れ……わ、わす、わすれ……わすれる……忘れる? 忘れ、忘れる、忘れ、忘れ、る?……忘れる? 何を? ミトラシュを? 姉様がミトラシュを忘れる? えっ? なんで? どうして? 忘れるって、忘れる、忘れるってこと? 忘れる? ミトラシュを忘れる? 姉様がミトラシュを忘れる? 忘れる忘れる忘れる忘れる忘れる忘れる忘れる? えっ? えっ? えっ? 姉様はミトラシュのことが大好き。だ、大好き、なのに、忘れる? 忘れたら、どうなる? 無かったことになる? 全部、無かったことになるのか? 姉様はミトラシュのことを大好きじゃなくなる? ミトラシュは姉様の大切な弟じゃなくなる? えっ? 忘れる? ミトラシュを忘れる? 姉様はミトラシュを忘れる? 忘れるなんて、なんで、どうして、突然、そんなこと言うんだよ。忘れるなんてあんまりじゃないか。酷い。酷い裏切りだ。姉様はミトラシュのこと、大好きって言ったのに。大切な弟だって言ったのに。嘘を吐いたのか? 姉様はミトラシュを騙したのか? どうしてそんな嘘を吐く? 嘘、嘘、嘘? 嘘なのか? 本当に? わからない。姉様は嘘つき? 裏切り者? そんな、まさか。だって、いや、でも。わからない。姉様の心がわからない。
オフィリアの心。それこそを、ミトラシュは求めていた。掴んだと思った。掴んで放さないつもりだった。それは思い違いだったのだろうか。
ーー違う。嘘じゃない。姉様はミトラシュを愛してくれていた。絶対に、嘘偽りなんかじゃない。
オフィリアはミトラシュを愛してくれていた。それが真実だったとしても、それは既に過去のものとなったのだ。
オフィリアの心を失ってしまったことを思うと、ミトラシュは堪らない寂寥に襲われた。オフィリアとの深い愛の日のことが思い出された。
心臓は葬送の太鼓のように鼓動を打ち鳴らす。
ーー裏切り者の阿婆擦れを、みすみす逃すつもりか?
ミトラシュは痛切な衝撃を受けた
ーー姉様が、ミトラシュから逃げる?
目を瞑り、耳を澄ませる。小さくて軽やかな靴音は、どんどん遠ざかる。ひらりひらりと舞う蝶のように、ミトラシュの手の届かないところへ行ってしまう。そしてもう二度と、ミトラシュの許に帰らないのだろう。
ーー逃げるなんて、赦さない。逃がすものか。失うくらいなら、いっそのこと。
彼は跳ね起きた。首輪に溶接された鎖がぴんと張る。彼を人間の側に繋ぎ止める鎖を、この時になって初めて、疎ましいと思った。
心臓が鼓動を打つ。鼓動が頭蓋に反響する。
ーー喰い殺す。爪で八つ裂きにして、牙で噛みついて、その血の一滴、肉の一片も余すことなく私のものにしよう。嗚呼、ミトラシュの姉様、オフィリア。ミトラシュはお前を愛していたのに、お前はミトラシュを拒絶して、逃げ出した。やはりお前も人間だった。醜悪な本性を露にした。私はお前を憎悪する。お前は私の期待を裏切った。その罪は万死に値する。裏切り者の阿婆擦れ奴、楽に死ねるとは思わぬことだ。
彼は鎖を引き千切り、扉を蹴破った。