ミトラシュ6
愛しい愛しいオフィリアの口唇から紡ぎ出された言葉は、蜘蛛の糸のようにミトラシュの心を搦め捕る。
『お母様に見捨てられたら、私、生きてゆけない』
おかあさまにみすてられたら、わたし、いきてゆけない
ーー『おかあさま』に見捨てられたら生きてゆけない、だって?
「なんだ、それ」
笑えない冗談だと、ミトラシュは眉を顰める。
ここはミトラシュとオフィリア、二人の世界だ。この世界に閉じ籠っていたい。大切な弟を可愛がる、優しい姉でありたい。オフィリアは確かにそう言った。
人の言葉は不確かで曖昧なものだ。オフィリアだって、嘘を吐くかもしれないし、約束を忘れるかもしれない。
他愛ない嘘を吐いても良い。たまに約束を破っても良い。ミトラシュの期待を裏切らないでいてくれるなら、それで良い。
もし、オフィリアに裏切られたら、見損なうとか失望するとか、そんなものでは済ませられない。
ミトラシュはオフィリアの額に額をくっつける。オフィリアの額はしっとりと濡れていてひんやりと冷たい。
「姉さまと一緒じゃなきゃ、ミトラシュ、生きてゆけない」
ミトラシュの訴えを聞き、オフィリアは微笑む。オフィリアが微笑むと、それだけで、ミトラシュは嬉しくなった。それが儀礼的な微笑みだったとしても、それだけの価値はある。
「そんなにも私を想ってくれるの。ありがとう、ミトラシュ。でも、それはあなたの思い違いだわ。だって私たち、一年前までお互いの存在を知らずに生きてきたのよ。出会う前に戻る。それだけのこと」
オフィリアはミトラシュの心情をさらりと否定した。いかにも予想外で、ミトラシュは絶句せずにはいられなかった。
オフィリアと出会い、その優しさに触れ、ミトラシュの心は生まれた。それまでは、喰らうだけの怪物だった。あの頃は、喰らい、息をしているだけだった。生きているとは言えない。
ーー姉様は『おかあさま』の為に、ミトラシュに生きるなと……死ねと言うのか?
オフィリアがミトラシュの双肩を掴む。お日様のように光輝くオフィリアの微笑がどこか蔭っているように見えるのは、目の錯覚だろうか。凍りつくミトラシュに、オフィリアは問い掛ける。
「ねぇ、ミトラシュ。私は優しい姉様かしら?」
ミトラシュは僅かな躊躇もなく首肯いた。ミトラシュにとって、オフィリアは優しい姉の他の何者でもない。そうでなければ、赦せない。
すると、オフィリアの微笑がぐにゃりと歪んだ。いつもの優しい微笑ではない。憫笑と自嘲と嘲笑を混ぜ合わせ煮詰めたような、不気味な表情がオフィリアの愛らしい顔を歪めていた。
「それは、本当の私じゃない。本当の私は、優しくない。あなたと出会って、私は初めて、優しくなりたいと思った。あなたと触れ合ううちに、優しくなれるような気がした。あなたが私を慕ってくれるから、優しい姉様になりきれた。あなたと、ここでこうしているときだけは。……所詮はごっこ遊びだったのよ。ごめんなさいね」
謝罪の言葉は極めて冷ややかで、それがオフィリアの声帯から発せられたものとはにわかには信じがたいけれど、ミトラシュを見るオフィリアの冷淡な双眸がその事実を裏付けていた。
ミトラシュはオフィリアの温もりにすがろうとして、彼に触れるオフィリアの手指が氷のように冷たくなっていることに気付いた。惜しみなく温もりを与えてくれた優しい手が、ミトラシュの温もりを奪っていた。
オフィリアが『おかあさま』に想いを馳せるたび、ミトラシュの腹の中で『おかあさま』を八つ裂きにしてやりたいという殺意がグツグツと煮えたぎっていた。それらは、心臓に氷刃を突き付けるようなオフィリアの仕打ちによって、氷結した。
ミトラシュは、オフィリアの声をいつまでも聞いていたいと思っていた。紡がれる言葉、ひとひらひとひら、その全てが心地好かったから。
でも、もう聞きたくない。歪な笑顔を浮かべるオフィリアなんて、ミトラシュは知らない。目を覆いたい。耳を塞ぎたい。しかし、凍てつく心身は自由を失っている。
「姉さま」
ミトラシュの顔はひきつり、声は掠れていた。こんなのは違う、何かの間違いだと、そればかりが頭の中で右往左往していた。
狼狽えるミトラシュに、オフィリアは容赦しなかった。水門を切って放ったかの如く、滔々と語りだす。
「巡る継の月、お母様と私は、国使としてブレンネン王国へ赴くことになったの。国使としてクローネ王を訪問し、正式の国交を開くよう鄭重に申しいれる為に。国使として王妃が派遣されるなんて、あり得ない。前代未聞だわ。正式の国使としての格式で迎え入れられるかどうかもあやしいのよ。ブレンネンは流浪人の国。国王であっても、どこぞの馬の骨の末裔に他ならないもの。
陛下は、そのような蛮国に、私を嫁がせるおつもりなのかもしれないの。ブレンネン王太子の妃には、歳回りがちょうど良いと仰っていたそうだから。ブレンネンの女は人ではないとされ、家畜と同等に扱われるのですって。信じられる? 絶対服従を強いられ、家に繋がれ、鞭で打たれるとか。私はこの気性だもの。嫁いだとしても、すぐに王太子の不興を買うでしょうね。そうしたら、どうなるのかしら。殴られ蹴られ、殺されてしまうかしら」
ミトラシュははっと我に返った。オフィリアは項垂れているので、どんな顔をしているのか、よく分らないけれど、晒されたうなじの色は、透き通るような白さだった。後れ毛が震えている。
『へいか』はオフィリアを隣国へ嫁がせるつもりかもしれない。
それはつまり、オフィリアがミトラシュの手の届かない何処か遠くに行ってしまうかもしれないということ。オフィリアがミトラシュではない他の誰かの所有物になってしまうかもしれない、ということ。
想像すると、ミトラシュは怒りに我を忘れた。
ーーなんだ、それ。ふざけるなよ。姉様はミトラシュの姉様だ。ミトラシュだけの姉様なんだ。姉様が触れるのも姉様に触れるのも、姉様が微笑みかけるのも姉様に微笑みかけるのも、姉様が大好きなのも姉様を大好きなのも、ミトラシュだけなんだ。
オフィリアを抱き締めたい。抱き締めて、そのまま、二人の世界へ連れ去ってしまいたい。衝動につき動かされ手を伸ばす。指先が触れる寸前、オフィリアは顔を上げた。
愛らしい双眸は、たちまち三角にそばだち、白い歯がキリキリ鳴り、両頬は薔薇色に燃え立った。
優しいオフィリアが初めて見せた憤怒の形相に、ミトラシュは息を呑む。まるで、オフィリアの皮を食い破って、何かが羽化したかのようだった。